「罪の赦しの確信を告白すること」

shuichifujii2006-06-06


 最近おどろいたのは、クリスチャンでも、自分の罪の赦しの確信を持つべきではない、と考える人がいると知ったことです。唖然としました。「自分の罪はキリストによって赦されたと宣言するのは、傲慢、神しか罪の赦しを宣言出来ない」という理屈です。

 その理屈に対しては、まず、「人間」である信仰者が、神に赦された確信を宣言している聖書箇所をいくつかあげておきましょう。

ダビデによる罪の赦しの告白
詩編
32:5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。

パウロによる罪の赦しの宣言

「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)

ヤコブによる罪の赦しの宣言

「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5章15節)

ヨハネによる罪の赦しの宣言

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネの手紙)

 (この聖句によれば、もし、罪を告白して、なお神に罪赦されたと考えないなら、「神は真実で正しいお方」であることを否定することになり冒涜でしょう。罪を告白し悔い改めるなら、神は罪を赦してくださるのだ、と告白することこそが、神は真実で正しい方であることを証することなのです。)


 もちろん、人が罪の赦しを宣言しているといっても、カトリック的な、「告解」による司祭の「罪の赦し」の宣言とはわけが違います。プロテスタントは、そういう、「教会」とか「人間」の権威による罪の赦しを認めません。罪が赦されるのは、教会の権威とか、他人の権威とか、自分の権威などではなく、キリスト権威によって(マルコ2:10)です。その「キリストの権威による罪の赦し」を、わたしたちは、信仰によって告白する、宣言する、というのがプロテスタントの立場です。

 さて、もし、自分に対する、罪の赦しの確信を宣言するべきではない、というのなら、誰に対しても、「イエスキリストを信じるなら、あなたの罪は赦されます」と宣言できなくなります。「一応、聖書にはそう書いてありますけれども、結局は、罪を赦すのは神様なんですよね。だから、本当のところ、クリスチャンの私たちも、罪が赦されたかどうか、確信がないんですよね。」などと言っていて、伝道など出来ますか?

 信仰による、赦しの確信を持たない人間が、命をかけた福音宣教など出来るでしょうか。クリスチャンを迫害したパウロが、はたまた、イエスさまを裏切ったペテロが、自分のその罪の赦しの確信も持てないまま、他人に向かって、罪の赦しの福音を宣べ伝えたのだ、などと本気で考えることができるのでしょうか?

不思議です。