「教会の誕生」

shuichifujii2006-06-04


聖書:使徒言行録2章1節〜13節

 聖歌隊が賛美してくださったように、御霊が降って、あの弱々しかった弟子たちが力を得、全世界に福音を宣べ伝えるようになった。そのことを記念する日。今日はペンテコステ主日であります。
 ペンテとはギリシャ語で、5という意味なんですね。今でも、たとえば、アメリ国防省ペンタゴンといいますけれども、5角形という意味ですね。建物が5角形で、ペンタゴン。また、ペントハウスとか、ペンタックスという言葉も、ペンテ、5という言葉が付いているわけです。

 ペンテコステとは、50日目という意味です。いつから50日目かといえば、過越の祭りから数えて、50日目。イエスさまが十字架についた過越の祭りから50日目であります。イエスさまは死から復活して40日の間弟子達のまえに現われて、天に昇られたとあります。今や目に見える姿のイエスさまはおられない。そんな中弟子達は必死になって心あわせて祈っていた。その10日後のペンテコステの日に、弟子達の上に聖霊が与えられた。イエスキリストの霊が与えられた。そして、聖霊によって導かれる、新しい共同体が誕生した。それがペンテコステであります。それまで、キリストの弟子たちは、俺が一番で、おまえは二番、などと、俺が俺がと生きてきた。徴税人出身者もいれば、漁師出身、熱心党というテロ組織出身者もいて、いつもイエスさまが中心にいたから、なんとか一緒にやってきた弟子たちが、今や、同じ聖霊を受けて、同じイエスさまの霊に導かれる、一つの共同体となった。それすなわち、教会の誕生であるわけであります。

 先ほどの晩餐式を行って、「教会の約束」を読み上げました。「私たちは、この教会が、人によって成ったものでなく、神によって成ったものと信じます」と告白しました。
 私たちも、自分勝手にここに集っているのではなくて、神様に集められた、聖霊に導かれた。だからここにいるのだと告白しているわけです。もちろん、自分の意志で、教会に来ているわけですけれども、しかし、教会に来たい、一緒に礼拝を献げたいという、その思いは、どこから来たのかというなら、それは私たちの内にいて、導いておられる聖霊の導きであると、そう信じる。いやそうでなければ、教会ではないわけであります。

 今日の聖書の箇所に、もう一度目を落としたいのですが、閉じてしまわれた方はあけて頂けたら幸いですけれども、

1節をみると、
「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていた」
と記されています。

 さて、 「五旬節の日が来て」(使徒2章1節)と、訳されていますけれども、五旬節とはペンテコステの日。そして、原語のギリシャ語をみると、ここは、「五旬節の日数が満ちた」という意味になっています。「五旬節の日が来た」というのと、「日数が満ちた」というのでは、微妙にニュアンスが違います。その日が「来た」というのは、その日だけが大切ですけれども、その日数が「満ちた」というときには、その満ちるまでの、プロセスも大切になってくるわけであります。

 ペンテコステの日まで、弟子たちは毎日、何をしてきたのかということが大切になってくる。それではなにをしていたのかといえば、1章14節にこうあります。

1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

とあるとおりであります。彼らは、心を合わせて熱心に祈っていた。しかも、一人ではなく、共に集って祈りました。共にあつまるためには、自分の生活を犠牲にしなければなりませんけれども、わたしたちも、今日、ここに集うためには、何かを犠牲にしているわけですけれども、みんなそのようにして、「一緒に集って」祈った。一緒に心あわせて祈った。そのこころ会わせた祈りの日々が、積み重なり、時満ちて、聖霊が降る日を迎えたのでありました。祈りの積み重ねの上に、聖霊は降ったのであります。

 しかし、それだから「祈り」は大切だ、ということを言いましても、いつもきまって、「そうはいっても、祈ってばかりいて何になる」という声が聞こえてきます。特に現代は忙しい時代。時は金なりであります。何かをしないではいられない、行動至上主義の時代であります。その時代の価値観のなかで、クリスチャンでさえも、心のどこかで、祈りに対して冷ややかになっていたり、あきらめてしまうことがある。「先生、祈ってばかりでいいのでしょうか」と言ってこられる方もおられる。

 確かに、祈りという行為は、人間にとって不自然な行為であります。私たちは、生まれたときから、自分のことは自分で出来るように、自分で頑張るように教えられて育ってきて、自分の人生、自分の力と努力で切り開け、競争社会に勝ち抜くのだと、そのような価値観を植え付けられて育ってきたわたしたちにとって、この「祈り」という行為は、なんとも無駄に思える行為でしょう。自分の力を信じろと教えられた根の深い価値観に、逆らう行為、不自然な行為。それが祈りであります。だから、3分も祈ったら、眠くなってしまう。

 キリストの弟子たちも、かつてはあまり祈らない人達だった。彼らが、共に心あわせて祈る姿など、福音書には一度も出てこない。それどころか、イエスさまがゲッセマネの園で、必死に祈っておられるその横で、弟子たちは、眠りこけていたわけです。

 弟子たちは、長い祈りに耐えられなかった。祈っている時間があったら、自分の力で行動したかった。そういうことでしょう。彼らは自分に自信があった。最後の晩餐のとき、イエスさまにこういいはなった。「たとえ、御一緒に死なねばならなくとも、ついて行きます」 そういった。そこまで、彼らは、自分の力を信じ、自分は大丈夫だと信じていたからこそ、イエスさまと一緒に、たった一時間も祈ることができずに、寝てしまった。

 そんな彼らが、今や、毎日熱心に祈りつづけるものとなったのは、イエスさまを見捨てて逃げさるという、卑怯な自分、情けない自分と直面したからでしょう。自分はこの世界を変えることが出来ると思っていたけれども、この自分一人変えることさえ出来ない。無力な自分であることを知った。

 しかし、そこからこそ、本当の祈りは生まれてくるのであります。いったん自分の力に失望し、自分のいい加減さを知ったならば、もう、「祈ってなんになる」などと言ってなどいられない。本気になって、ただ主にひたすら祈るものになる。
 キリスト教の歴史を振り返れば、迫害とか困難な時代ほど、教会は力強かった。今でもそうです。豊かな国より貧しい国や厳しい国の教会の方が、活き活きとしている。なぜなら、困難や苦難は、神への祈りを生み出すからでしょう。私たちも病気や試練のなかで、叫ぶような魂の祈りを知る。そして、そういう熱い祈りが積まれて、積まれて、神の時が満ちた、あのペンテコステの日に、時満ちて、弟子たちの上に、聖霊が降ったのでありました。

2節
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

 その時、激しい風が吹きました。聖霊は風に喩えられることがあります。イエスさまも、風は思いのままに吹く、神の霊も、思いのままに働くと、そういわれます。聖霊は、決して私たちの自由になるようなものではありません。まるで自動販売機のように、祈っただけ聖霊が自動的に与えられる、というようなものではない。神の霊は神の自由に与えられる。それが風に象徴されています。

 さらに、炎のような舌が現れて、それが分かれ分かれになって、そこにいた一人ひとりの上にとどまったとあります。

 風が聖霊の自由を表わすとするなら、炎は聖霊の力の象徴といえるでしょう。
 パウロは、ロマ書のなかで、「霊に燃え、主に仕えなさい」といいました。「霊に燃え、主に仕えなさい」。聖霊は私たちの心の中を燃やす力です。「霊に燃え、主に仕える」これを逆にしてはいけない。「主に仕えると、霊に燃える」のではないわけであります。「霊に燃えて、主に仕える」。ですから、まず、聖霊によって内なる心が燃やされて、そこから奉仕という外側の行いが生まれてくる、ということであります。

 今月から駐車違反の取り締まりが厳しくなりましたけれども、国とか権力というものは、基本的に、力を行使することで、私たちの外側から働きかけて、支配するものであります。しかし、天の父なる神様は、力によって、私たちの外側から支配なさらない。そうではなくて、神様の支配は、力ではなく、愛による支配なのであります。キリストの愛によって、私たちの心を支配なさる。外側ではなくて、内側に働きかけて導く。それが聖霊であります。

 その聖霊の炎は、一つの炎が、分かれ分かれになって、一人ひとりに分け与えられたと、あるように、同じ聖霊を頂いていても、一人ひとりが違う。それぞれに違った賜物、熱情、奉仕を生み出しながら、それでいて、一つになれる。これが、まさに、聖霊に満たされた教会であります。

さて、4節をみると、
「一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、ほかの国の言葉ではなしだした」とあります。

 その場にいた、外国から帰ってきたユダヤ人たちが驚いた。「自分たちは、世界各国から来ているのに、私たちの言葉で、神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と驚いた。

 これはなにを意味している出来事なのでしょうか?

 弟子たちは他国の言葉をかたった。しかし、言葉は違っても、それは、同じメッセージ、神の偉大な業を語る、同じメッセージが、様々な国の言葉になって語られた。そして、そこに集っていた世界中の人々が、その同じメッセージを聞いて理解出来たということが起こった。

 ここで思いだすのは、創世記のバベルの塔の出来事であります。昔、世界中は同じ言葉を使っていた。しかし、ある時、「天まで届く塔のある町を立てて有名になろう」と、人間が高慢になってしまった。そして、その高慢さゆえに、神は、彼らの言葉を混乱させ、互いにコミュニケーションをとれなくさせた。人間の高慢さが、互いの言葉を混乱させた、というのが、バベルの塔のメッセージであります。

 東西冷戦後の現代も、北アイルランドアフガニスタンチェチェンソマリア、など、世界中で民族紛争は後をたちません。言葉が違い、宗教、文化が違う人間同士が一緒に生きることがいかに困難なことかと思います。アフリカルワンダで約100万人が死んだフツ族ツチ族の対立においては、彼らは言葉も身なりもほとんど同じなのに、互いに理解し合えずに、そういうことになってしまった。

 同じ言葉を話しているのに、なぜか分かり合えないということは、私たちの周りにもあることですね。同じ日本語を話していても、世代や価値観が違うと、言葉が通ないということがある。

 東海林(しょうじ)さだおというエッセイストがいて、最近、電車の中で、お化粧をなおす女性が増えたことを嘆いていて、そういう女性に遭遇すると、悔しさを感じるというのであります。彼はこう書いています。

「それは、無視されたくやしさなのだ。事実、彼女たちは周囲の人間を無視しているのだ。というか、人間じゃないと思っているのだ。スイカやカボチャだと思っているのだ。」

 そういうわけです。あなたなど、いてもいなくても、わたしには見えない、関係ない。それは裏を返せば、自分のことにしか関心がもてない利己主義であります。自分の狭い仲間内だけで通じる言葉をつかい、言葉が通じない人は、スイカやカボチャと感じてしまう。同じ言葉を話していても、互いに理解できず、分かり合えない。

 それは、まるであのバベルの塔の言葉の混乱と一緒。人は、高慢になればなるほど、お互いの言葉が通じなくなる。利己的になればなるほど、互いに、心が通わなくなり、ばらばらになっていってしまうのであります。

 しかし、約2000年前のペンテコステの日。高慢で利己的だった心が砕かれて、神の前に心低く祈っていた人々がいました。心低くし、心を合わせて祈っていた人達。キリストの弟子たちの上に、聖霊が降り、弟子たちは、みんな、同じ聖霊の語らせる言葉を聞いたのであります。言葉はちがおうとも、みな、聖霊からのおなじメッセージを聞き、心一つにあわせる、共同体が生まれた。教会が誕生したのであります。

 黒人と白人の和解のために戦い、死んだマーティン・ルーサー・キング牧師は言いました。
「私には夢がある。いつの日にか、ジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷であった者たちの子孫と、かつて奴隷主であった者たちの子孫が、兄弟として同じテーブルに向かい腰掛けるときがくるという夢を」

そう語って、ついに、その夢を見ずに死んでいきました。このキング牧師の夢は、憎しみあっていた人々が、ともに生きるこの夢は、いったいどこで実現するのでしょうか。
 聖霊が降った教会において、誰もが同じ聖霊の言葉を聞く教会において、この夢が実現しなければ、いったい、どこで実現するというのでありましょうか。

聖霊が降ったとき、ペテロは、このような説教を語りだしました。
2章17節
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊を全ての人に注ぐ。すると、あなた達の息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」

預言者イザヤは終わりの日の幻をこう預言します。

「終わりの日に、・・・彼らは剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし/槍(やり)を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣(つるぎ)を上げず/もはや戦うことを学ばない。」

 教会とは、神がこの終わりの時代に、その一人子イエスキリストを十字架に付けてまで、実現しようと願われた、神の幻、神の夢の成就。

 福音によって、神と人が、人と人が和解し、共に生きていく、キング牧師のあの夢が実現するの共同体。同じ聖霊を頂いて、心あわせて生きていく共同体。教会の誕生であります。

エスさまはかつて弟子たちにこういいました。
「13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」ヨハネによる福音書13章34節〜

 教会は同じ聖霊を頂き、互いに愛し合う共同体であります。ゆえに、その命は、ひとえに祈り。人の力でも思いでもない。祈りであります。高慢さを砕かれ、心低くして祈りながら、同じ聖霊によって、導かれてまいりたい。この世界が切に求めている、夢を、互いに愛し合う夢を、共に祈る祈りを通して、地の果てにまで証していきたい。神の栄光を表わしてまいりたいと、願うのであります。