待つこと

教会暦では、今はアドベント待降節
救い主の誕生を待ち望む時、ということ。
現代の教会としては、25日を待てばいいということか。いや、もうひとつ、再臨を待つという意味もある。
2000年以上前、本当に救い主の誕生を待っていた人々に思いを馳せる。
いつまで待てばいいという日が設定されないまま、待たねばならないということは、これは大変なことだ。
神の時を待つためには、信仰が必要。
聖書を見ると、待てなくて失敗した人が結構いるな。
アブラハムは約束の子を待てなくて、ハガルに子を産ませた(創世記16章)し、祭司ザカリアの口が聞けなくなったのは、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから」(ルカ1:20)だったし、サウルはサムエルを待てなくて取り返しのできない致命的な失敗をしてしまった。(サムエル上13章)
待つっていうことは、口で言うほど簡単なことじゃないな。

 昔「わたし待つわ」って歌があった。「わたしまーつーわ。いつまでも、まーつーわ」
でも、人をあんまり信頼して待つと、泣くはめになるかも。どうせ待つなら、「神の時」を待ったほうがはるかにいい。
人の時は、「過ぎ」。神の時は、「満ちる」から

ガラテヤ4:4 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」