「祈りによって」

2005年12月4日常盤台バプテスト教会主日礼拝説教
聖書:使徒言行録1章3節〜14節

 わたしたちの教会の、初代牧師婦人である、松村あき子先生が、先月25日に主の元に召されまして、そのすぐ後の27日の日曜日から、今日まで、わたしたちの教会では、世界祈祷週間を守ってきたわけであります。
 水曜日の祈祷会では、工藤姉妹がお話くださいまして、松村あき子先生が、青年時代、まだ敗戦後の思想的にも経済的にも、混乱の中にありました時代、この日本のために、いまこそ福音が必要なのですと、アメリカ南部バプテストの外国伝道局に、手紙を書いた。そして、その一通の手紙が、きっかけとなりまして、その後、アメリカから、沢山の宣教師の方々が、派遣され、また、沢山の献金が、日本の伝道のために献げられたということを伺いました。このときわ台教会も、その献金によって、土地と、昔の建物を、いただいたわけですね。松村あき子先生が、そのような手紙を書かれていたというお話は、わたしも今回初めて伺いましたので、大変感動いたしました。また、そのようなあき子先生が、世界祈祷週間のこの時期に、主の元に召されていかれた。ここに、神様の摂理をも思うわけであります。

 また、今年の祈祷週間は、シンガポールの宣教師をつとめられた、加藤とおる先生にも、熱くメッセージを頂きました。今、アジアは、日本のクリスチャンを必要としているのだという、熱いメッセージを頂いて、世界宣教への思いを新たにいたしました。そして、同時に、あき子先生の、一通の手紙によって、かつて敵であった、日本のために、献げ尽くしてくださった、アメリカのクリスチャンたちのように、今、アジアの必要を聞かされているわたしたちは、献げることができるのだろうか。その力と、パッション、情熱というものがあるのだろうか、と、主から問われた思いがするのです。

 去年、ブラジルから日本にいらした、アルタイラ先生のお話を伺いましたとき、今、世界の宣教師は、経済的に貧しい国の教会からどんどん派遣されているけれども、豊かな国の教会からは、逆に宣教師が減っているのだと伺って、あらためて、世界宣教の力というものは、経済力とは関係ない。そういうことではなく、信仰の力、霊的な力がなければならないということを、思わされたわけであります。

 今は、「世界祈祷週間」ですから、やはり「祈祷」、祈りこそが、まず、何にもまして、わたしたちのなすべき務めではないでしょうか。それも、ただ一言二言祈って終わるような祈りではなくて、何度でも、執拗に、熱心に、熱く祈りもとめる、そのような熱い祈りが求められているように思うのであります。

 さて、今日の御言葉の箇所は、弟子達が、いよいよ世界宣教へと遣わされていく、その前に、しばしエルサレムにとどまり、約束された、聖霊を待ちなさいと、イエスさまが語られた所から始まります。あのイエスさまを見捨てて逃げた、弱い弟子たちが、この後、8節にありますように、「聖霊が降り、力を受けて、ユダヤサマリア、地の果てに至るまで、イエスさまの証人とな」っていく。大きく変えられていくところであります。

 しかし、彼らが変えられていくために、どうしても必要だったのが、約束の聖霊を待つということでありました。つまり、神の時を「待つ」ということが必要だったのであります。

 しかし、弟子達は、6節で、こういうわけであります。
「主よ、イスラエルのために国を立て直して下さるのは、この時ですか」

 このときの弟子達は、まだ、古い価値観にとらわれています。それはつまり、目に見えるもの、人間が作るもの、イスラエルの復興にこだわることであり、また、時間にこだわることであります。弟子達は、「今ですか、この時ですか」とイエスさまに問うたのです。しかし、イエスさまは、天の「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」と言われたのであります。

 この世界には、人間には知ることの出来ない、神の時、というものがある。そう聖書は教えます。それは、人に都合のよい時ではありません。神がふさわしいとされる時であり、結局は、それこそが、人にとってももっともふさわしいときである、そういう、神の時というものがあるのであります。

 今日は聖歌隊が「久しくまちにし」を讃美して下さいました。今は、アドベント。25日のクリスマスを待ち望む時です。しかし、2000年以上まえ、本当に救い主の誕生を待っていた人々は、いつ救い主がこられるのか、全く分からないまま、ただ、ひたすら待っていたことを思います。

 待つということは、とても不安なことです。 言葉で言うほど、「待つ」ということは、簡単なことではありません。まして、神の時を待つためには、わたしたちには、信仰が必要であります。

 北朝鮮に拉致された、横田めぐみさんの、お母様、横田早紀江さんは、めぐみさんが、1977年に行方不明になって、その非常な苦しみの中で、聖書に出会い、そして7年目の1984年に洗礼バプテスマをうけクリスチャンになられました。当時、まだめぐみさんについて、なんの手がかりもなく、それでも、娘は生きていると、一瞬一瞬、信じて待ちつづけることが、どれほど大変なことか、その精神的な苦痛は、とてもことばで言い表すことはできない。そんななか、導かれてバプテスマを受け、全てを神に委ねることとなり、何とか、自分を見失わずにすんだのですと、ある本なかに記しておられました。

 弟子達は、結局、エルサレムで10日間まち、ペンテコステの日に、聖霊が下りました。しかし、それは結果的に10日間であったのであって、イエスさまは初めから、10日間待ちなさいとは示されなかったのであります。神の時は、人間には示されません。もしかしたら、弟子達は一日二日で聖霊が下ると思っていたかも知れません。それが、7日、8日経って、なにもおこらなければ、疑いが湧いてきても当然であります。本当に、主の約束は真実なのかと、そういう信仰の戦いがあったでしょう。

 「神の時を待つ」ということは、信仰の戦いでもあります。ちっとも変わらない現実のなかで、いっこうに良くならない病の中で、いや、益々悪くなるかのように思える状況の中で、それでもなお、「いや、事態は必ず良くなる。必ず、神の御心が行われるのだ」と信じることを選びとる。それが、「神の時を待つ」信仰であります。

 金曜祈祷会に参加しておられるある姉妹は、ご主人の救いのために50年祈たっと言われました。それは結果的に50年であったのであって、ご主人が救われるまで、60年でも70年でも姉妹は祈られたでしょう。

 ヘブライ人の手紙の10章には、「神の御心を行って、約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」とあります。
人の約束は、反故になるかも知れません。しかし、神の約束は必ず果たされると信じ、主を待ち望むとき、私たちは力を頂きます。

 預言者イザヤはいいました。「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。」
 神の約束を待ち望むものは、力を受けます。クリスチャンになった横田早紀江さんは、本の中で、こうも記していました。「もう、どんなことが起きても、愛に満ちあふれた神さまが、すべてを最善にしてくださると、いつも期待一杯で見つめています」

 神の時を待つ。それは無駄な時間を過ごすことでも、空しく力を失うことでもありません。神はもっともふさわしいときに、もっとも良いことをなしてくださる。そう信じるとき、私たちは、常に、前向きに生きていく力。証する力、伝道の力をいただくことができるのであります。

 それと同時に、大切なことは、14節に記されていることであります。弟子達は、ただ、ぼんやりと待っていたのではありません。彼らは、心を合わせて熱心に祈りながら、神の時を待ったのであります。

 しかし、ここで注意したいのは、弟子たちが、こうして熱心に祈るのは、実は、ここが最初だということであります。それまで彼らは、熱心に祈ったことなどありませんでした。少なくとも、福音書の中には、イエスさまが祈った姿は記されても、弟子たちが熱心に祈った記述は皆無なのであります。

 もちろん弟子たちも、イエスさまを見習って祈ることはしたでしょう。ある時は、イエスさまに祈りを教えてほしいと願ったこともありました。しかし、弟子達だけで、熱心に心を合わせて祈るということは、それまで一度もない。弟子達はあまり祈らなかったのであります。

 もっとも印象的なのは、あのゲッセマネの園での出来事です。イエスさまは十字架を前にして、必死に父なる神に祈っておられた、その横で、弟子達は寝ていたのでありました。イエスさまに、わたしと一緒に目を覚まして祈ってほしいと言われても、弟子たちは一時間も目を覚ましていられなかったとあります。たしかに、体が疲れていたということがあるでしょう。最後の食事の時に、ぶどう酒を飲んだからかもしれません。彼らが眠かったのは事実でしょう。ですから、弟子達はこの緊迫した状況のなかでさえ、すやすやと寝ることができた。

 しかしある神学者は、こう言いました。「なぜ、弟子達はここで眠ることが出来たのか?それは、彼らが自分自身を信じていたからだ」

 すこし不思議な言い方かもしれません。彼らがゲッセマネで眠ることが出来たのは、疲れではなくて、彼らが自分自身を信じていたからだというのであります。どういう事でしょうか? つまり逆をいうなら、本当に神を信じきっている人は、こういうときに、疲れていたとしても、眠ることなど出来ない、熱心に祈らずにはいられないのではないかという問いなのであります。

 確かに、祈るということは、そう簡単な事ではありません。
 わたしたちも、祈りが大切なことは十分分かっているつもりです。しかし、分かっているだけでは、なかなか祈れない。いざ、祈ろうとしても心が集中しない。たとえ祈り初めても、すぐに飽きて疲れてしまう。いや、時には、祈ることさえすっかり忘れて日を過ごしてしまうこともあるかも知れません。そんなとき、「ああ、自分は弱い」。もっとしっかりしなければと思う。祈れないのは、自分の弱さだと思う。しかし、実はそうではなく、祈れないのは自分が強いからであり、自分を信じているからではないのかというこの問いかけに、こころ探られるのです。

 弟子達は、ゲッセマネの園に行くまえ、最後の食事の時にイエスさまにいいました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくとも、ついて行きます」
彼らは、そんな自分の力を信じて、ゲッセマネで眠ったのであります。

 斉藤剛毅先生が翻訳したフォーサイスの「祈りの精神」という本があります。これは、ぜひ多くのクリスチャンの方々に一読して頂きたい祈りの本でありますけれども、その本の冒頭で、フォーサイスは、「最悪の罪は、祈らないことです」と記しました。祈らない。それは私たちの単なる弱さではなく、魂の罪の問題であることに気き、悔い改めるところから、私たちの祈りの生活は、変えられていくのではないでしょうか。

 弟子たちは、最後に、イエスさまを見捨てて逃げさることで、自分の罪と直面します。信じていた自分自身に失望します。しかし、失望のどん底にまでおちた弟子たちを、復活したイエスさまは赦し、もう一度立ち上がらせて、世界宣教へとつかわして下さるのであります。

 だからこそ、ここで弟子達は、熱心に心を合わせて祈った。そう思います。祈り。それはある意味、自己を放棄することであります。自分の力を信じる愚かさから解き放たれ、神にのみ望みをおくとき、本当の祈りが生まれる。

 この熱心に祈ったと訳されているところは、口語訳では、ひたすらに祈ると訳され、また、ある英語の訳では、祈り、懇願すると訳されているものもあります。
 自分にはなんの力もないことを悟り、ただ主にひたすら懇願する祈り。その幼な子のような祈りこそが、主の目に尊(たっとく)く、主に届く祈りでありましょう。

 松村あき子先生が、主の元に召されて、告別式の挨拶で、長男の誠一先生が、自分が天国に行ったら、まず一番に、神様に、母の病気のことを聞きたいと、そう言われた言葉を聞いて、あらためて、あれほど優れた能力を持り、そして、日本と世界の宣教のために献げきったあき子先生が、なぜ、その力を奪われて、20年も病まねばならなかったのか、そのことを、思いめぐらさずにはいられませんでした。

 そんな思いをもちつつ、この説教の準備のなかで、祈り、黙想しておりました。そして、告別式で、蓮根の高木牧師が、あき子先生は、最後までどんなときも礼拝と祈りを欠かしませんでした。召された朝も、岡田先生とともに、主の祈りを捧げ、そして、静かに召されていかれましたという言葉を思い巡らしておりました。

 人の価値観で量れば、何もすることが出来なかったあき子先生の20年に、意味を見いだすことは難しいでしょう。しかし、神のまなざしで見るならば、それは全く違ってみえるのではないか。

 人には、神の時を待ったり、祈りつづけることの本当の価値は分からない。

 待っているくらいだったら、祈っている暇があったら、もっと行動すべきじゃないかと、わたしたちの価値観は、そう訴えるでしょう。現代に生きるわたしたちは、あまりにも、行動することに価値を起きすぎているのであります。行動至上主義に陥っているのであります。

 しかし、神の視点は違う。人には、無駄に見えようとも、、神の時を待てと主は言われるのであります。人には無駄に思えようとも、祈りと礼拝を捧げよと、主は求め、そして主は、それを喜ばれる。

 祈ってばかりいないで、行動すべきだという人は、本当の祈りの力を知らない人でありましょう。祈らなければ決して得る事の出来ない、神の祝福を、神の力を、知らないことは、悲劇ですらあります。

 日本、そして世界の宣教のために、神様は、もっとも重要で、もっとも求められている奉仕を、祈りという奉仕を、あき子先生にお与えになったのだ。先生は最後まで世界宣教の業に仕えておられたのだという思いが、わたしの心の中に強く深く響き、平安を頂いたのであります。

 世界宣教の力は祈りにこそあります。諦めずに、神の時を待ちつづけ、神に望みをおいて熱く祈るその祈りこそ、世界宣教の本当の力なのであります。

 祈っていた弟子達の周りには、母マリアや、兄弟たちもおりました。そして、総勢120の人々で祈っていたと記されています。中には、弱い人も、祈りがよく出来ない人もいたでしょう。そんな全ての人々が、この祈りの交わりに入れられ、心一つに祈る教会に、聖霊は降るのであります。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 聖霊を受けた弟子達は、エルサレムから伝道を始めました。それは、主を十字架につけた場所。もっとも伝道の難しいところからであります。それは私たちにとっては、家族であり、友人であり、職場のあの人、もっとも語りにくい人のために、まず、熱く祈り始めるところから、世界宣教は始まるということであります。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 ともに、聖霊の力を祈り求めていきたいのであります。