月曜日と火曜日は、一応、教会から牧師のお休みの日としていただいています。
実際には火曜日は、聖書の学びのビデオ収録と編集があるので、実質的には月曜日だけがお休みなんですけどね。
日曜日は朝の礼拝から、午後には話し合いや相談事などを聞いたり、礼拝のビデオを編集するなどいろいろあり、夜の7時からの夕礼拝の準備と、礼拝が終わってからの、夕礼拝のビデオ編集など、一日いっぱい色々あるので、
月曜日の朝は、ゆーーくり起きて、だらだらと過ごすようにしています。
そういう意味では、月曜日が安息の日ということになりますけれど、そうはいっても、日曜日に安息をしていないわけではなくて、心と魂は安らいでいるんですよ。
だた月曜日は、あえて生活のリズムにメリハリをつけ、緊張を解くという意味で、ダラっとする。
だらっとするというと、勤勉な日本人には聞こえが悪いけれども、真っ白なキャンパスでなければ、新しい絵はかけないように、
頭と心のキャンパスを真っ白にすることは、創造的であるためにも、必要なことだと思うわけです。
真っ白にすると言いながら、ユーチューブはよく観ます。今日は糸井重里さんと中田さんの対談を聴いて、「糸井さんって23年間も毎日ブログを書いているんだ」って感心したので、これを書き始めたということもあるのです。
糸井さんは、ずっとブログを書き続ける自信はないけど、書き始めたら書き終われるようなことを言っていたな。わかる気がした。
「何を書こうか?」「面白いネタはないか」と考え、構想をまとめてから書く、というスタイルだと、毎日は続けられないと思うからね。
とにかく書き始めたら、なにか書けてしまう、ということはあると思う。
別に、いい内容なんて必要ないんですよ。普遍的に良い文章なんてないしね。
でも思ったのは、どんな内容でも、その時の出来事を書き記したものは、時を経てからある一定の価値を持つことはあるんじゃないかなとは思う。
それは自分の過去のブログを検索するときに、特に感じますね。「ああ、この出来事は、この日にあったのか?」と確認できるから。
それに、そのときにはあまり価値のない内容に思えたものが、時を経て、時代が変わると、違った価値を持つこともあると思うからね。
だから、「今」なにか価値あることを書こうとしなくていい。今の人に書くんじゃなくて、10年後の自分が読み返して、「ああ、このときはこんなことを言っていたんだな」って思うだけで、十分価値があると思うからね。