やっぱり温泉教会

 最近、ブログに書くネタがないので、先月の教会の月報に書いた、「温泉教会」という文を、ここにも書いておきますね。

特に、今、なかなか教会にこれない、共働きでつかれきっている子育て世代の人たちを、イメージしつつ。

 

わたしは以前、「温泉付き教会」があったらいいと、本気で考えていた時期があるのです。小さな伝道所で礼拝をしていた時、バプテスマを受けたばかりのある女性が、夜勤明けにも関わらず疲れた体を引きずって礼拝に来てくださり、その気持ちが本当にうれしく、思わず礼拝のメッセージの最初に「眠たくなったら寝てもいいですよ。礼拝の日は、安息の日ですからね」と彼女に語りかけて始めたことがありました。

 疲れた体を運んで、教会に来てくれた。家族だけで礼拝をしていたわたしたちにとっては、もう、それだけで、そこにいてくれるだけでいい、と、本当に思ったのです。ほんとうに。

 一週間のこの世の生活のなかで、疲れ切った心を体、さまざまな汚れや傷。それが礼拝の中で復活のイエスさまに触れられ、いやされ、そして教会の脇の施設の温泉で温まり、体の疲れも癒されて、新しい一週間へと出発していく。そんな「温泉付き教会」があったらなあ。伝道所の庭を掘ったら温泉が湧いてこないかなぁと、その時から、突拍子もない夢を見てきました。

 実は山形には、本当に教会の目の前に温泉の施設がある教会があるのだそうです。温泉付きが無理なら、「正面に温泉教会」もいいですね。

 さて「温泉」というメタファー(隠喩)には、「癒し」とは別にもう二つ意味があるのです。

 一つ目は、「温泉」に入る前には、体を洗ってきれいにする、ということから、一週間の生活の中で、人にも自分にも、傷ついたり、傷つけたり、そんな日々の中でこびりついた汚れの数々、そして神を信頼できずに思い悩んでは、恐れ、イライラした不信仰の罪の汚れ。

 そういう自分自身では落とせない罪の汚れを、イエスさまにきれいに洗っていただく現場。そういう悔い改めと赦しという意味も「温泉」という言葉に秘められています。

 また二つ目は「温泉」にはだれもが裸で入ります。もちろん男女は別ですが・・。そこが「プール」とはちがうところです。水着さえもつけない。すべて身につけているものを脱ぐ現場。それが「温泉」。

 日曜日の礼拝とは、いつもの生活の中で自分を守るために身につけた、社会的地位とか、知識とか、プライドとか、そんなものを、みんな脱いでしまい、神さまのまえにひとりひとりが1人の裸の人として、神の子として出会う現場である、ということです。

 実際、温泉の湯船では、立派そうなおじさんのお腹が出ている姿や、手術のあとが生々しかったり、そういうその人の本当の姿をお互いに見せあって同じお湯につかるんです。それが温泉。

 自分を守っているものを脱いで、裸になり、1人の人として出会う現場。それが日曜日に共に集り、すべてを知っている神の前に、共に礼拝を捧げるひとりひとりの出会いの現場でありたいのです。教会に来ても、自分を守り、心を閉じたまま、洋服を着たまま温泉に入っていませんか。自分が身につけた考えプライド、エゴで自分をまもって礼拝していませんか。
裸になれずに、洋服を着たまま湯船にはいる「温泉」は不自然で、ちっともあたたまらないように、心を閉じて、プライドで身を守った礼拝では、ちっとも心はあたたまらないと、わたしは信じる牧師です。

 あったまる教会っていいじゃないですか。花小金井キリスト教会も、そんな、誰もが入りたくて集まってくる、あったかい「温泉教会」の一つに違いないと、わたしは主にあって、そう信じ期待しているのです。