「イエスに聞け」(花小金井キリスト教会 1月24日 主日礼拝メッセージ)

ルカ9章28節〜36節

 予報では、昨日から雪が降ると言っていたのですけれども、晴れましたね。
 先週は東京も、突然雪が降り積もりました。
 とはいっても、一日だけでしたから、まあ、これくらいの雪なら、ほっておいてもすぐ溶けるだろうと、わたしは、道路の雪かきを適当に済ませてしまったんです。
 甘かったです。
 教会の前の道は、高い建物に囲まれ、ちっとも日がささないではないですか。
 それで雪が溶けずに踏み固められ、つるつるになって、数日間、教会の前の道を通る人が、ころころ転んでいたんです。
 よりによって、教会の前で転ばせてしまって、ごめんなさい。 次に、降ったら、ちゃんと除雪するぞと、心に決めていたんですけど、昨日は降りませんでした。
 わたしたちは雪はそれほど珍しくもありませんが、沖縄の方々には、雪は珍しいんでしょうね。昨日は沖縄にみぞれのようなものが降ったことが、ニュースになっていました。
 そらから白いものが降ってくるなんて、まさに世の終わりのような、奇跡を見る思いだったのかもしれません。ちょっと大げさですね。
 わたしたちには当たり前の雪も、暖かな南国の人には、そんなことあるわけがないという、信じがたい奇跡にみえる。
 人は、つい自分に見えている、目の前の小さな社会が、この世界のすべてだと思うものです。

 先ほど朗読された、主イエスの姿が変わるという、天が開いたような、この出来事も、

 わたしたちの常識ではそんなことあるわけないじゃないかと、言いたくなるわけです。南国から一歩も出たことがない人のようにですね。

 わたしたちも、この地上からは、まだ一歩も出たことがないわけですから。

 しかし、自分は見たことがないから、そんなことはない、とはいえません。見たことがあろうとなかろうと、雪は空から降るのですから。

 今日の聖書にしるされている、主イエスの姿が変わる出来事も、まるで雪のように、服が真っ白に輝いた出来事を、

 わたしたちは見たのだと、書き残した弟子たちの証言を、

 そして、その証言を、命がけで書き残しつづけ、2000年の間、伝え続けた教会の証言ですから。

 わたしたちは、謙遜に、心の耳を開いて聞きとります。

 つい、目の前の厳しい出来事にとらわれて、それが世界のすべてだと、失望し、不安に縛られてしまいやすいわたしたちの、

 その内側からではなく、外側から、地上ではなく、天上から響いてくる声に

 教会でしか聞くことのできない、希望の言葉、希望の証言を、わたしたちは聞きとるために、ここに集っています。



 28節からもう一度御言葉を読みます。

「この話をしてから8日ほどたったとき、イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」

 この話とは、ご自分はやがて殺されるが、復活すると、初めて弟子たちに、受難と復活の予告を話された出来事です。

 病をいやし、たくさんの人々にパンを与えるこの力強いイエスさまは、いったいどなたなのか。

 人々が様々なことを語るなかで、弟子たちは「あなたは神からのメシアです」「キリストです」。神の救いを実現するお方ですと告白したのです。

 しかしその直後に、主イエスは、そのわたしは、人々から苦しめられ、殺されるのだと、思いもしないことを言われ始めた。

 弟子たちは、どんな思いで、この話を聞いたことでしょう。

 心からの尊敬と愛をもって、あなたこそ「神からのメシア」ですと、最高の愛の告白をしたその方から、


その返事として突然、「実は、わたしの余命は、あとわずかなのだ」と、告げられたようなものです。
 
 弟子たちは、この主イエスの言葉を、どう受け止めたでしょう。深い失望感と、落ち込み、そして心が闇のようにならなかったでしょうか。

 数年前、妻の父が68歳で天に召される、数ヶ月前、ある日いきなり医者から余命数ヶ月の宣告を受けたことを思い出します。

 長くて半年、早くて3ヶ月という、まだ元気そうな父の余命の宣告を聞かされた、娘である妻。そしてそばにいた私は、ショックを隠せなかったし、

何かの間違いじゃないのか、なんとかならないのかという思い、不安、失望感の入り交じった気持ちになったことを思い出します。

 なぜ、医者は、余命宣告というものをするのだろうと思いました。過去のデーターがどう言おうと、人間が人間の命の時間などを、宣告していいのだろうかと、その当時、複雑な感情を抱いたことを覚えています。

 なぜ、このようなことを申し上げるのかというと、この時の弟子たちも、最も愛する人の口から、もっとも信頼している方の口から、余命宣告を聞いたからです。わたしは死ぬのだと聞いたからです。それを聞いた弟子たちのショックは、失望感は、心のなかに広がる不安、闇はどれほどだったのだろう、と想像するからなのです。

これからどうなってしまうのだろう。なにが待っているのだろう。そういう不安に押しつぶされ、闇の中を歩まされるような一週間を過ごした弟子たち。

その受難の宣告から、8日ほどたったある日、三人の弟子は、主イエスとともに、祈るために山に登ったのです。

不安と恐れに心つぶされそうな日々を過ごしていた彼らの心の闇に、一筋の光を見せてくださるそのために。

 祈りという、天の父とつながる、その現場に、主イエスは3人の弟子たちをつれて、

神の光の目撃者に、証人になさったのです。

 主イエスが白く輝き、モーセとエリヤという、旧約聖書を代表する二人と語り合う姿を見せたのです。

 そこで話されている話は、主イエスがやがてエルサレムでとげようとしておられる最期(さいご)についてでした。

つまり、十字架の苦しみそして、復活のことでした。

モーセもエリア。律法と預言者。つまり旧約聖書全体もまた、主イエスの十字架と復活を、神の救いと告げていることの証として、モーセとエリアが登場するのでしょう。

 最期(さいご)と訳された言葉は、ギリシャ語でエクソドス。英語ではエキソダスです。「脱出」という意味です。

 主イエスの最後。それはただ死んで滅びてしまうことではなく、エキソダス。栄光への脱出

 十字架の苦しみのさきに、栄光への脱出がある

 そうなのです。主イエスは弟子たちに向かって、ただ余命宣告をなさったのではないのです。苦しみを受け、殺される告げて終わりではなかったのです。

三日目に復活することになっていると、告げられた。

 十字架の苦しみは、復活にいたる。栄光の脱出に至る。

その希望を、闇の中の光として、かいま見させていただいている弟子たち。

しかしその光景を見ていたペトロと仲間たちは、ひどく眠かったと32節に書かれています。

さらに、ペトロはこういうことを口走ります。

「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ立てましょう。ひとつはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」

ペトロは、自分でも何を言っているのか、わからなかったと書かれています。

これは後になって、ペトロがこの時のことをそう証言したのでしょう。

目の前に展開していることの素晴らしさに、自分でもなにを口走っているのかわからない状況。

そういう状況を想像するなら、ペトロたちがこのとき眠かったということも、わからないではありません。

神が働かれるとき、神が語られるとき、人は沈黙させられるということなのかもしれません。

詩編62編の言葉を思い起こします。

62:2

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」

受難の告知によって、不安の闇の中を歩まされた弟子たちが、ここにおいて、その自分自身の不安と恐れを鎮めて、

神の救いの希望を、その光を見させられていく。そういう出来事として、この山の上での出来事は、ここに置かれているのでしょう。

できれば、あの闇のなかではなく、この素晴らしい真っ白な光の中に、この山の上に主と共に、ずっととどまっていたい。

そういう思いが、「仮小屋を三つ建てましょう」とペトロに言わせたのでしょう。


ある説教者がこの個所について、こんなことを言いました。

ペトロは自分でいっていることが分かっていませんでした。

彼は、これが神の約束、復活の先取りであることが分からなかったのです。

旧約、新約という「約」は約束の意味です。

約束には、「確か」と「未だ」の二つが付き物です。

神の約束は確かです。しかし、それには未だ実現していない面があることを忘れてはなりません。

そしてこの「確か」と「未だ」の間で、しるしを見て生きてゆくのが、信仰の人生にほかなりません。


そういう言葉です。この山の上でみた光のなかに、栄光のなかに、とどまっていたいと願う心。

ある意味、わたしたちも週に一度、共に捧げる礼拝という、主イエスを身近に感じる、この山の上にとどまっていられるなら、そうしたい。

できれば、つらい現実の日々に、帰りたくない。

礼拝のあと、教会から帰りたくないと、いわれる方がおられます。その気持ちが、とてもわかります。

反対に、この場所に住んでいるわたしたちは、皆さんが帰ってしまったあとの、光が消えてしまったような会堂の寂しさを、知っています。

できればこの礼拝の喜びの中に、主イエスをまじかに感じる、この時間の中にとどまっていたい。仮小屋を作って、イエス様を閉じ込めてしまいたい。

しかしそれはできないのです。主イエスを、わたしたちの手の中に納めることなどできません。

弟子たちもまた、この山の上から下りていくのです。下りた先では、苦悩になやむ親子が出てきます。来週、開く個所です。

神の救いの素晴らしさ、不安や恐れを鎮めてくれる、神の救いの光。

その神の救いの約束は「確か」であって、でも、「未だ」実現をまっている状態。

その「確か」と「未だ」の間で、わたしたちはこの地上の暗闇のなかに、響いてくる声に聞きながら、天に至る旅を歩みつづける旅人です。


今日の聖書の出来事の結末はこうです。

栄光に包まれて現れた、モーセとエリア。そして白く輝く主イエス


その素晴らしい光は、たちまち雲に覆われてしまい見えなくなってしまいました。

その雲の中に残されていたのは、主イエスだけ。

主イエスだけがそこにおられたのです。そして声が響きました。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」

「選ばれたもの」

今日の礼拝の冒頭でよんだイザヤ書42章に、こうありました

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導きだす」

神が選び、神の霊によって語る、主の僕のことです。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」とイザヤは告げます。

権力者が叫ぶようにではなく、ひっそりと、耳のあるものに届く言葉で、

さらにイザヤは言います。

「傷ついた葦を折ることなく
暗くなっていく灯心を消すことなく
裁きを導きだして、確かなものとする」

神の言葉を語る、選ばれし神の僕
彼は、傷ついた人々を、そして暗くなっていくこの世の光を、

救い出す言葉を語られる方。


雲の中に一人残された、主イエスに響く、上からの声

「これはわたしの子、選ばれたもの。これに聞け」


「これに聞け」


「傷ついた葦をおらず、暗くなっていく灯心を消すことのないお方」

傷つき悩むものを、あわれみ導くお方。

「これに聞け」と弟子たちに、

そして今、この一歩前さえ見えない、不穏な時代を生きるわたしたちに

上から聞こえてくる言葉

「これに聞け」「イエスに聞け」



ノートルダム女学院理事長で、シスターの渡辺和子さんが書かれた本の中に、印象深いこんな一文を読んだことがあります。

「東北地方を旅をしていたときのことでした。その日はあいにく雨がひどく降っていて、周囲の景色は何も見えません。

バスのガイドさんは、さも残念そうに、「晴れていれば、このあたりには美しい湖(みずうみ)がごらんいただけるのですが、今日はおあいにくさまです」と謝るのでした。
 観光客の誰しもが残念がりながらも、そうかといって「いいや、見えていない湖があるはずがない」と抗議した人は一人もいませんでした。

 信じるということは、案外こういうことなのかもしれません。到底ありそうにない湖(みずうみ)の存在を、ガイドさんの言葉ゆえに「ある」と信じて疑わない、ということです。

同じことが、神の存在についてもいえるのではないでしょうか。「世の中」というバスに、今日も乗り込んでいる私たちに、イエスさまがバスガイドになって、「今日は目に見えませんが、神様は確かにいらっしゃいます。その方は私たち一人ひとりを限りなく愛していてくださる優しい父なのです」と、説明してくださっているのです。

 時には、「あなたが今経験していることは、父なる神のみ業とは到底思えない、理不尽で苦しいことかもしれませんが、信じてください。私が保証します」と、バスガイドさんは、すまなそうにおっしゃることもあります。しかし、私たちは、イエスさまという、バスガイドさんの、その誠実さを知るがゆえに、その言葉を信じて、生きる勇気を頂くのです。


まさに今日のメッセージを要約してくださいました。


雲の中から、神の声が響きました。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と

この後、山を下り、未だ、苦しみと悩み多き現実へと、帰っていく弟子たち

それは、この礼拝を終え、それぞれの悩みある現場へと、帰っていくわたしたちにも同様に響く、上からの言葉


わたしたちの苦しみも悩み、罪の裁きもすべて引き受け、十字架に死なれ、復活させられ、死と絶望から勝利した

主イエスの言葉に導かれ、天に向かう旅路を、今日も歩み続けます。

弱さにおびえるときに、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と響く主イエスの言葉を

困りはて、途方にくれた時に、

「この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と響く主イエスの言葉を

命の言葉に生かされ、今週も歩み続けます。

祈ります。