「役に立つ」という言葉は、道具に使っても、人に使っちゃいけない言葉なんですよ。
「あの人は役に立つ人だ」という言葉って、誉めているようだけれど、
実は「あの人は自分にとって役立つ、都合のいい人間だ」という意味なんだよね。
反対に自分に都合の悪い人を、「あいつは使えないな」と切り捨てたりするでしょう。
また、「他者の役に立ちたい」「会社の役に立ちたい」「社会の役に立ちたい」「国家の役に立ちたい」と頑張ったり、頑張らさせられたり、
自分は「だれかの役に立っているのだ」と安心したり、「だれの役にも立っていないと」と不安になったりするのは、
その「だれか」に支配される奴隷になってしまっているんだよね。
その「だれか」があなたを存在させたわけじゃないのに。
命をあたえ、目的をもって存在させたのは神なのに、
神が「あなた」に存在してほしいと、愛してこの世に生んだのに、
その「あなた」の存在意義を、「他者」「会社」「社会」「国家」から「役に立つ」と承認してもらうことにゆだねて、その奴隷になってしまっている、ということに気づいてほしいんですよ。
「役に立つこと」つまり「スキル」なんて、ある時は役立つことも、時代や文化や産業によって、ぜんぜん役立たなくなったりする、相対的なものだしね。
会社を定年したサラリーマンとか、年をとったり病気などで、できることが少なくなると、「自分は何の役にも立たない」と落ち込まされたり
「役に立つ」ってことばは、本当に、人間を縛ることばなんですよ。
そういう意味で、牧師は、この世では役に立たなくていいんです。
役に立つとか、喜ばれるとか、人の変わりゆく評価のむなしさを知り、
決して変わることのない「あなたはわたしの愛する子」といってくださる、神の
愛のなかにのみ、
魂の安らぎと満足を求め、その喜びを証し、語り続けるものなのだから。
「わたし(パウロ)は、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(フィリピ3章8節 口語訳)