この前のお祈り会で、みんなで聖書を読んだ箇所は、イエスさまの再臨の箇所
「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
盗人が夜やってくるように、主の日は来るということを、あなた方自身良く知っているからです。
人々が『無事だ安全だ』と言っているその矢先に、突然、破滅が襲うのです。
ちょうど妊婦に生みの苦しみがやってくるのと同じで、決してそれから逃れられません。
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。
ですから、主の日が盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです・・・・」(1テサロニケ5:1-4)
ここを読んでいて、ある方がいうんです。
「主の日、イエスさまが来るときって、前半では、盗人のように突然やってくるといっているのに、後半では盗人のように突然やってこないっていっているのは、なんだか矛盾しているみたいよね」って
うん、確かにそうだなぁ。いったい聖書はどっちだっていっているんだろう。
でも、それって実は、「どっちなんですか」って、聖書に問う話じゃなくて、自分自身が聖書から、「あなたはどっち」って問われている話なんですよね。
あなたにとって、イエスさまというお方は、「今」やってきてもらっては困る「盗人(ぬすびと)」ですか、
それとも、「今」でもいつでもOK 「マラタナ来てください」ってウエルカムなお方ですかって、はなし
つまり、今きてもらってはこまる。自分がやっていること、やりたいことを邪魔されては困るんだよ。
そんな自分の人生の「盗人」の立場に、イエスさまをしてしまっているのは、
神さまに目的を持って与えられた人生を、神を無視して、自分のやりたいように生きるぞって、自己実現につっぱしているわたしたちの方なんだからね、って話。
それじゃあ、やがて神さまにお会いするときに、あわせる顔がないんですよ。
いつ、お会いすることになっても、「お会いたかったです。嬉しいです」って、こころの目を覚ましていましょうね、ってはなしなんだよね。