隣人

クリスチャン個人、そして教会が、イエスさまのこの言葉

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」

にしたがって、隣人を愛そうとするときに、

まず自分を中心におき、そこから「隣人」への愛を広げていくという考えになるものですね。

まず自分の家族、自分の知り合い、友達、自分の職場、自分の教会、自分の国

ただ、その中心につねに「自分」がいる「隣人愛」がはらんでいる問題は、

「自分の隣人」と「自分の隣人以外の人」、という二元論に陥るということだと思うんです。

自分の「家族」、自分の「会社」、自分の「教会」、自分の「国民」を

まず愛するというと、

結果として、その「自分の隣人」の安全と利益を奪う「自分の隣人以外の人」から、

「自分の隣人」の権利をまもるための争いや、

「自分の隣人」の繁栄のための搾取や、

「自分の隣人」の命を守る、自衛という名の戦争を、

肯定することに繋がってしまいます。

かつてどの国の教会も、

その理由をもって、戦争を肯定してきた悲しい歴史を抱えていることからも、

この問題は、実に根深い問題なんです。

ですから、自分がかわいい、自分の命がかわいい、まだそんなエゴの塊である、わたしなどが、

なにか高いところから歴史の教会や、今の誰かを見さげるようにして、

この点において批判などできるわけが、ないんです。

ほんとうに、自分も自分のことばっかり、の人間ですから・・・

さてイエスさまの時代、

「自分の隣人」への愛を十分に実践していた律法学者が、

「彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」」(ルカ10:29)

と、イエスさまに聞きました。

せめてわたしも、イエスさまに聞いて、教えていただきたいと思います。

きっと、今の自分を正当化してくれる「自分の隣人」とはちがう、

思いもしなかった、

いや、できれば避けたいとさえ思っていた

「隣人」との出会いとチャレンジのプレゼントを

エスさまは与えてくださるのでしょうね。

わたしの心の狭い「隣人」愛を、ほんの少しでも、ひろげてくださるために