大人だって居場所がほしいよね

shuichifujii2013-12-04

 今日は先日の市議会議員の選挙で当選なさったEさんのためのお祝い、という口実で(笑)、何人かのお母さんたちに声をかけてお茶会

 実は、最近、こどもの居場所「ピーターさんの庭」を水曜日の3時〜5時に曜日変更したのです。でもまだ浸透していないのであまりこどもたちは来ないのですが、なんだか、ピーターさんの庭は、こどもより、おとなの居場所になりつつあります(~_~)

 
 おとなもこどもも、そのままの自分でいられる場所が必要なんですよね。そこにいるお互いが受け入れあう現場。

 聖書を読むと、イエスさまの周りには、いろいろな人が集まってきたけれども、なかには主義主張や立場が違う弟子たちも、イエスさまが真中にさえいて下されば、互いに一人の人として一緒にいることができた。

 その人の外側(主義主張とか、社会的立場とか、男とか女とか、etc)、そういう違いを越えて、その人そのものと、心を開いて出会いたい。

 教会って、本質的に、目に見えないイエスさまが、そこに集う人々を、繋げてくれる居心地のよい居場所。現場になるはずなんですよ、というより、それが実現している現場を「教会」と呼ぶんだよね。

 でも、教会というと、「ざんげするところ」というイメージがあるらしくって、それはものすごい誤解だよね。はやくそんなイメージ払しょくしたいなぁとつくづく思いますよ。


 でもあえて「ざんげ」という言葉をつかうなら、「そのままの自分でいようとしないで、カッコつけたり、仮面をかぶって、偽りの自分を演じていたこと」を「ざんげ」する。つまり、そのままの自分が、神さまに愛されていることに安心して、神に愛されているそのままの自分に立ち返る。それが「ざんげ」だし、「悔い改め」なのだから。

 その本当の自分、あなたで一緒にいられることが100パーセント実現する現場が、やがてくる神の国、天の国だと言えるし、その先取りとして、毎週の日曜日、教会にいろいろな背景の人が集まり、心を一つにして礼拝するわけです。

その様々な人が、心を合わせる日曜日の礼拝があるからこそ、その人々を一つにしてくれる、イエスさまの愛と恵みのおこぼれとして、ピーターさんの庭のようなホッとする居場所も実現すると、わたしは理解してやっているんですね。

 日曜日に一緒に神さまを礼拝する、ということがなければ、本当の意味で、人と人がホッとして一緒にいられる現場って、実現しないんです。これは47年人生生きてきて、さまざまな人間関係の破れをみつづけてきたものの実感、確信ですね。

 まあとにかく、イエスさまが繋げ、イエスさまが実現してくれる、そんなほとする居場所。それが大人も子どもも必要な時代なのだから、ピーターさんの庭はきっとこれから熱くなりますよ(^O^)


※あるママが、コピー用紙で立体的な星を作ってくれました。