赤ちゃんにお母さんは言葉を語りかける。
意味がわからなくても、声をかけつづけることで、あかちゃんはその声に反応するようになる。
お母さんとの音声の交換によって、閉じた世界から、外の世界へと赤ちゃんは導かれていく。
乳児が人間として成熟するためには、母親と発声の交換が必要。
交換する能力にともない世界は広がり、交わりが広がり、自己が広がり、成熟していく。
交換が阻害され、交換が否定され、交換が諦められるにつれて、
倫理的な意味でも、私たちは人間社会から疎外し、仲間から疎外し、自分自身から疎外していく。
他者と「より広く、より深く交換できる」ようになることが、人として成熟するということ。
その成熟へと、幾多の傷を乗り越え、なお他者とのやり取りに向かわせる原動力として
全ての人を愛し、生んだ天の親との交換、やりとり。つまり祈りが与えられていると思う
つまり、祈りとは、自分の世界に引きこもる自閉的な営みとは全く逆のこと。
他者へと自己を開かせ、成熟へと向かわせる命の源と交換する営みなのだ
「絶えず祈りなさい」新約聖書 1テサロニケ5章17節
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」新約聖書 マタイ5章44節