証の力

 今日はYちゃんとOさんは風邪のためお休み。礼拝のなかでみんなでおいのりしました。


 礼拝にいらしたTRさんに「今、忙しい時期ですのに」と申し上げると、「いや、忙しいからこそ、礼拝に来ました」とのお返事。本当にその通りですね。「忙しい」とは「心が亡びる」と書くように、忙しいからこそ、自分を見失わないために、週の最初に神様を共に礼拝する。その祝福をTRも奥様も、今味わっておられるのだなと、感じました。


 礼拝のなかで毎週、それぞれの証をして、神様に祈りますけれども、本当に毎回恵まれます。

「つい、人と比べて自分はだめだと思ってしまうけれども、神様はこんな私を決して見捨てられないと信じている。」


「いろいろと思い煩うこともあるけれども、主人から、『それは神様に試されているのではないか』と言われて、そうなのかなと思っている」


「一時期は辛いこともあったけれど、今は、神様によって穏やかな気持ちで過ごしています」


「イエス様だったら、こんなこというだろうか、こんなことするだろうかと、気がつかされて、悔い改めて、愛せるようにと神様に祈らさせられるのです。」


 今日は、それぞれ、そんな証が分かち合われました。


 聖書の言葉が、その人の内に生きはじめる時、証が生まれます。その証を分かち合うとき、互いに励まされて力をいただきます。聖霊のお働きですね。そんな営みの中で、私たちは、イエスさまに似るものへと、成長し変えられていくのですね。


「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(新約聖書 コリント人への手紙第二 3章18節)



「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(新約聖書 ヘブライ人への手紙 4章12節)


「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(新約聖書 ヤコブの手紙1章21節〜)