「清貧」か「善い管理者」か

 テレビのニュースステーションというニュース番組で、アメリカでクレジット破綻した人に、キリスト教会が健全な経済生活を教える教育プログラムを行っていると、紹介していました。


 そのなかで古館さんが、「教会で清貧を教えているのですね」というようなコメントをしていて、それはちょっとちがうよなぁ、と思ったので以下にその理由を書いておきます。


 まず「清貧」という言葉は、「禁欲」をイメージさせます。しかし、聖書は禁欲主義を教えてはいませんし、逆に、強く批判さえしています。


「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」(新約聖書コロサイ人への手紙2章20節)


 なぜ禁欲主義はいけないのかといえば、禁欲主義は霊肉2元論(魂は大切で、肉体は大切ではない)という考えに基づいているからです。聖書は、霊肉2元論ではなく、神の作られた肉体も魂も大切なものと教えています。


「・・・神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」(1テモテ4章4節)


 むしろ聖書が教えているのは、神様から預けられた自分の命、財産の「善い管理への道」であり、そのために神様が与えてくださる「セルフコントロール」の力を用いることなのです。


「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(1ペテロ4章10節)

「霊の結ぶ実は・ ・節制です」(ガラテヤ5章23節)