今日は礼拝のなかで、献金のときにTRさんにお祈りをお願いしました。「罪深い者をお赦しください。いままで無駄なことにお金を使ってきてしまいました。これからは神様のご用のために用いられますように」というようなお祈りをなさったので、私は驚くとともに、深く感動いたしました。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(新約聖書 マタイ6章21節)
といわれたイエスさまの言葉を思い起こしました。祈りつつ、ささげられるTRさんの、主イエスさまへの思いが深く伝わってきて、涙が出ました。
礼拝後の雑談のなかで、私が「もう、バプテスマを受けられない理由はない気がしますが、あとなにが問題ですか」とお訪ねしました。神棚や仏壇や、お寺とのお付き合いの問題など、具体的な課題がおありとのこと。それらは、日本の特に田舎においては、どこでも起こってくる問題です。
「ただ、そういう具体的な事柄も、きっと神さまは一番良いように導いてくださると思いますよ」と私。
実際、多くの人が、神棚とか仏壇とかお墓とか、そういうことで、バプテスマに踏み切れないでいることを、沢山見聞きします。
でも、私は思うのですが、そのような具体的な課題こそ、「自分の力」でなんとかしようとしないで、神様に委ねて祈っていかれたらよいのだと思います。
バプテスマを受け、祝福に満ちた新しい歩みを始めるために必要なものは、ただ「信仰」だけです。そして、私たちの「信仰」を通して、主はすべてを良いように整えてくださるのですね。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(新約聖書 ヘブライ11章1節)
「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(新約聖書 ローマ4章5節)