御言葉を求めて

 今日は18回目の聖書を読む会。
母教会の山形教会から、いつも遠く訪ねてきてくださり、心から感謝しています。

 山形のKさんが証をしてくださいました。ご自分の頑張りではどうにもならないことに気がつかされて、60歳の時に洗礼(バプテスマ)を受けられたKさん。真理の御言葉を求め続けて歩んでこられたことを、語ってくださいました。


 酒田からはOKさんが、初めて「聖書を読む会」に参加してくださいました。OKさんは、去年の12月に初めて教会の礼拝に参加されて、それ以来、久々でしたが、OKさんは「去年教会に行った日から、毎日聖書を読んでいます」といわれます。


 今日も、御言葉を語らせていただきましたけれども、OKさんはその御言葉を、スポンジのように、ぐんぐん吸収されているのが手に取るようにわかります。御言葉に飢え乾いておられるなぁ、求めて歩んでおられるのだなぁ。神さまに導かれているのだなぁと、感じます。


 喉が渇いていない人に、いくら、水の入ったコップを渡しても、飲まないし、飲めないわけです。喉の渇きを感じるというのは、水を飲んで、命を保つために、どうしても必要なことです。


 神の御言葉を求めて飢え乾くことは、命の水である御言葉を求め、霊の命を保っていくためにどうしても必要なことなのですね。


 今日、御言葉を語りながら、TRさんもまた、御言葉を求めておられるなぁと、あらためて感じました。


 牧師として、今まで数え切れないほど、御言葉を語らせていただくなかで、飢え乾いている方に御言葉を語らせていただけるときほど、深い喜びはないことを体験してきました。そんな喜びを、ここ酒田の地でも与えてくださった主に、心から感謝しています。


 また山形のYさんご夫妻は、「クリスチャンになっていなかったら、今のような幸いな夫婦関係はなかった」と語られました。御言葉によって変えられつづけている証に、感動でした。


 世の中には、自分は「変わりたい」という人は沢山おられます。でも、自分は「変えられた」と語れる人は、それほどおられないのではないでしょうか。


 「変わりたい」と「変えられた」の間には、深い深い谷があるのですね。


 その谷は自力では渡れない。その谷を渡るのには、どうしてもキリストが必要。


 キリストを求め、キリストの言葉に飢え乾く人こそ、本当に幸いな人なのだなぁと、思うのです。



「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。」(詩編42編2節)


「主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。」(詩編107編9節)

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(新約聖書 マルコによる福音書4章20節)


「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(新約聖書 1ペテロ2章2節)