「わたしの原理」の終焉

shuichifujii2013-02-05

原理主義」と言うと、特定の宗教を絶対視する宗教原理主義と結びつくイメージですが、そういうものに捕われていく根源には、「わたし」というものを絶対化していく自我の働きがあるわけです。

「わたし」は、わたしを守ろうとして、自分の文化や世界を絶対化しようとするでしょう。「わたし」は、わたしを認めさせようとして、自分の立場や役割や力を絶対化しようとするでしょう。

しかし「わたし」自身は不安定な存在なので、確かな「わたし」であろうとして「わたしの原理」を絶対化する「わたし原理主義者」となっていくわけです。


 人が、不安を感じる根底に、その「わたしの原理」が脅かされるという恐れがあるし、人と争いになるのも、その根底に、「わたしの原理」を脅かす存在への恐れや攻撃があるのです。


 なので「わたしの原理」を絶対とする、わたし原理主義者は、他者と出会うことができません。なぜなら、出会いとは、「わたしの原理」というものを、少しずつ放棄していかないと起こりえないからです。


 そもそも、およそ他者とは、「わたしの原理」にとっては、敵なのです。イエスさまが「敵を愛しなさい」と言われたのは、単に嫌な人と無理に仲良くするということではなく、「わたしの原理」とはちがう「あなたの原理」と出会うことであり、その出会いによって、「わたし原理」を超えて、神に造られたあなたにもっとなっていく、ことだからです。


 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということも、本当に頬を打たれるような特殊な話と受け取るよりも、他者との出会いとは、そもそも「わたしの原理」にとっては、ほっぺたを打たれるようなことであり、そのたびに「あなたの原理にはわたしの原理を」と打ち返しているなら、出会いなど起こり得ないのです。

 しかし、「わたしの原理」を超えて、勇気をだして、左の頬も向けてみるなら、新しい出会いが生まれるでしょう。そして出会いを通して、新しいわたしへと生まれていくのです

 その「わたしの原理」からの解放を、イエスさまは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしについてきなさい」と言われます。

 「自分を捨てる?」そんなことができるのでしょうか?。「わたしの原理」を捨てたら、わたしそのものが、なくなってしまうのではないでしょうか?

 いや、そうではないのです。

 わたしを存在させ、愛し、導き、完成させてくださるキリストが、古い「わたしの原理」を後にして、「あたらしいわたし」へと導いてくださるために、すでにわたしのなかにいてくださるからです。

 それが復活であり、新しい創造ということです。


 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」Ⅱコリント5:17