今年最初のメッセージ

花小金井キリスト教会 元日礼拝
イザヤ書43章16節〜20節
「新しい芽生え」

主の愛に支えられて、不安なことも沢山あった、2015年を、なんとか生き延びて、こうして2016年の最初の日を、ご一緒に、迎えることが出来ました。
あらためて、感謝と共に、新年のご挨拶をいたしましょう。
「あけましておめでとうございます。」

 実は、今日のこの元日(じつ)礼拝は、お休みにして、西地区の元日礼拝に合流する話しを、11月まではしていましたけれども、12月の執事会で、やはりやりましょうと、復活したのでした。
今思えば、このように、午前中から元日礼拝を始めれば、結局、両方できるじゃないですか。 なぜ、最初に、気がつかなかったのでしょうね。人の考えや、判断は、いつも不完全なものだと思います。
完全であるお方は、主なる神さまだけですから、人の知識も解釈も、判断も、いつも間違いを含んでいるものですね。
ですから、完全ではないものを、完全だ、絶対だと、かたくなになるところに、「罪」があるんだよと、イエス様は、律法学者たちを諭したこともありました。
律法の自分たちの解釈が絶対だという、律法主義ですね。あらゆる原理主義といわれるものは、いつも、自分たちは完全、絶対。あなたたちは、間違っているという、二元論で、分裂と、暴力と、破壊を、この世界にもたらすわけです。
去年の、テロと空爆の悲しみは、まさにその象徴的出来事でした。
自分の判断は、いつも正しい。間違いはない。そうかたくなにならないように、神様の語りかけに、いつも心を開いて、いたいものです。


そういえば、イエス様は、こんなたとえも言われましたね。

豊作に喜んでいた人がいた。さあ、蔵にたくさんの蓄えができた。これで安心だ、食べろ飲めと浮かれていたときに、

愚か者、お前の命は明日にでも取り上げられるのだ。

そうしたら、おまえが残したものは、一体誰のものになるのか、というたとえ話でした。

人間は、できればこの地上に、永遠なるものを求めたい、手に入れたいと願います。

ちまたで、健康法がはやっているのも、その一つなのでしょう。

でも、いつも心に覚えていたいのは、わたしたちは天に向かう旅人であることですね。

ペトロの手紙に、こうあります。

2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。


本質的に、わたしたちは旅人であり、仮住まいの身ですから、

ペトロの手紙には、こうも書いてあります。

1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

わたしたちは、仮住まいの身。今あるもの、もっているもの、健康も、みんないつかは枯れていく。

だからこそ、永遠に変わることがない、主の言葉に行かされることこそが、福音なんですね。

誰にだって、思いや願いはあります。
新年の最初に、初もうでをして、その思いや願いを祈る人も、たくさんおられるでしょう。

でも、わたしたちは神社ではなく、こうして教会にやってきたのは、

わたしの思い、願いが実現しますようにと、お祈りに来たわけではなくて、
永遠なる神の、そのご計画が、御心が、なりますようにと、

その神様の最善の御心が、この身に、なりますように。この教会に、この日本に、この世界になりますように。

神の国がきますようにと、お祈りに来たわけです。


私は去年の今頃は、山形の酒田で開拓伝道をしていたのに、ふと気がつくと、今、この花小金井教会の牧師になってしまっているんです。

ごめんなさい。正直にいいますが、そうなってしまったとしかいえないんです。

なぜなら、これは、わたしが熱心に願っていたことでも、祈っていたことでもないからです。

これは、自分が願って、祈ってきたことですと、いえるなら、神様がわたしの祈りを聞いてくださったと、申し上げられられますけれども、実際は、そうではなかったのですから、嘘はいえないですね。

花小金井教会に来てほしいという、招聘委員の方の申し出を、一度ははっきりとお断りしたのです。

頑固者でしょう。今思えば、自分の思いや考えに、こだわっていたんです。

今、この小さな伝道所の状態で、ここを離れるわけにはいかない。そうしたら、この開拓はどうなってしまうんだ。見捨てるようなことはできない。

それが正直な気持ちです。人間として、ある意味当然だと思います。

でも、不思議にも、今、私はここにいます。

みなさんに証したいのは、結局、今、みなさんがなにかこだわりがあったり、こうなってほしいとか、こうなっては困るとか、いろいろ思いや願いはあると思うのです。

合理的に考えれば、もっとこのほうがいい。過去の経験に照らしても、蓄えた知恵や財産や信用や、そういうものを生かす意味でも、

もっといい決断、判断、歩む道があるはずだ。そう、思うときもあると思うのです。

そういう人間としての最前の努力をしたうえで、しかし、いつでも忘れてはならないことは、

わたしたちは、「神」ではないのだ、人間なのだ、ということではないでしょうか。

どんなに知恵を尽くし、合理的な判断をしても、人間のすることに、完全などありえない。むしろ、合理的であることが、間違いへと導いてしまうかもしれない。

ゆえに、わたしたちは、この天と地を造られた神の御心に、いつも心を開いて、柔軟でいたいのです。

わたしたちの、頑固な心。こうあってほしいという願いや思いを、あえて、捨てさせ、新しい道へと、導かれる主なる神の語りかけに、心を開いて、

新しい年を始めたい。

この2016年も、ますます先の見えない、一歩先に、なにがまっているかわからない様々な不安な年となるかもしれません。

それでも、この歴史を導いておられるのは、神なのであって、1年、2年という時間の流れをこえて、100年、1000年という時間の流れの中で、神はちゃんと歴史を導いてくださっている。この世界は神が造られた故に、神が導かれる歴史。ゆえにちゃんと神が責任を取ってくださるので、最終的には、「大丈夫なのだ」

目の前のことに、恐れ、縛られずに、自由に、常に、新しいことをなさる、主に期待して、2016年を歩みだしたいのです。


先ほど、イザヤ書の御言葉を読んでいただきました。

イスラエルの民が経験した救いの歴史。

海の中に道を通し、恐るべき水の中に、通路が開かれて、

エジプトの奴隷だったイスラエルは、その通路を通って、救われていった、あの出エジプトの、神の救いの出来事。

圧倒的な、神の救い。イスラエルの民が、体験し、繰り返し、繰り返し、語り継いだ、神の救い。

この神が決定的に働かれた、救いの出来事を、

驚くべきことに、18節で、預言者はこう言い放つのです。

「初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな」

「見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか」

これは、驚くべき言葉です。イスラエルの民の、救いの原点である、出エジプトの救いを、

なんどもそこに立ち返り、語り伝えてきた、救いの歴史を、

もう、思い出すな。思いめぐらすな。

わたしは新しいことを行うのだ。今や、それは芽生えている。

あなたたちは、それを悟らないのか、というのです。

これは、今、同じ主に導かれ、神の歴史を生きているわたしたちにも、語りかけられている言葉でしょう。

人間はいつも、過去の出来事にとどまっていたいものです。そのほうが安心だからです。
あのすばらしい日々に、あの神の出来事に、その思い出の上に、座っていたい。


でも、神は、創造主ですから、常に新しい創造の働きをしておられるわけです。

神の歴史は常に新しく前進している。

過去の出来事、経験にとらわれていると、その神の働きの、「新しい芽生え」に、気がつかないで、ただ同じことを繰り返してしまうものです。


新しい出会い、新しい出来事。新しい状況。それは、当然不安を呼び起こします。

自分に理解できないこと、思いもしなかったこと、計画も予定もしないことに遭遇する時、人は喜びよりも、恐れと不安を感じます。

クリスマスという新しい神の出来事をつげる天使の言葉に、恐れた羊飼いやマリアのように、

神が始められる「新しい芽生え」は、それは素晴らしいと、人を感動させるよりもまず、

マリアがいったように、「そんなことがありえるでしょうか」と、不安と拒絶の反応を引き起こすのです。

それが、神のなさる「新しい芽生え」に対する、人間の当然なる反応なのです。

ですから、人は、そういう神の業の「芽生え」に遭遇すると、恐れのあまり、踏みつぶす、ということも起こるからです。

「主イエス」がこの地上に生まれたとき、領主ヘロデは、その新しい芽生えを踏みつぶそうと、2歳以下の子供たちを抹殺したのです。

また、やがて伝道者となっていくパウロも、かつては、「神はイエスを信じる者を救う」という、神の救いの「新しい芽生え」がわからずに、

むしろ自分が今まで信じてきた律法を、否定するようなやからなど許せんと、

クリスチャンを、迫害することで、神の新しい「芽生え」を踏みつぶそうとしたのでした。

わたしたちも、神ではなく、人間ですから、当然、あのヘロデのようにも、かつてのパウロのようにも、なってしまうものなのです。

自分にとって、大切なものを、それが、今の自分を支えている、大切なものであればあるほど、神のなさる「新しい芽生え」は、不安を引き起こします。

それは当然なのです。

イスラエルの民にとって、出エジプトの歴史が、まさに、イスラエルの民の忘れることのできない、彼らのアイデンテティーであったように。

その思い出の上に、たち続けたいと願うのは、人間の当然の思い。願いなのです。

そうであるからこそ、預言者は語ります。

「初めからのことを思い出すな
昔のことを思いめぐらすな
見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。」

と。

この地上のものも、人も、出来事も、働きも、それはすべて、

二度と起こらない、そのとき限りのこと。

常に新しいことを行われる神が、歴史の主である限り、

この地上の歴史は、決して繰り返されないのです。


それはもう、戦争が起こらないという意味ではなく、

むしろ人は愚かなので、昔やったことと同じことを繰り返そうとする。

同じ手段で、人々を誘導して、戦争を起こしたがるのは、人間の愚かさです。

しかし、神は常に、新しいことをなさる。その神が歴史の主であるかぎり、過去と同じ歴史が繰り返されることは決してありません。

単純な話をすれば、わたしたちはもう二度と、戦国時代や江戸時代に戻ることはできないし、やり直せないのです。

歴史も、わたしたちの人生も、やり直したくても、やり直せるわけがありません。

その過去の、神が導いてくださった、一度限りの時間、歴史、人生なのですから。

やり直すことはできないし、やり直す必要もない、永遠の価値をもつ、歴史であり、人生なのです。

それは、常に、神は、新しいことをなさっているから、そうなのです。二度と同じことは起こらない。

二度と同じ人生は歩めない。

今、わたしたちは、二度とない、時間と歴史を、生きているわけです。

ここで出会った出会いも、出来事も、すべては神が新しくなさっている働きであり、出会いです。

そのすべての意味は、今は分からなくても、ただ、心を開いて、その出会いと出来事を、心に納めながら、一歩一歩、導かれていきましょう。

それが主イエスを宿す、私たちの生き方です。

母マリアが、自分の身に起こった、神の出来事を、主イエスとの出会いを、その意味はすべて分からなくても、ただ、すべてその心に納め、思いめぐらしたように。

今年与えられる、すべての出会いと出来事に込められている、神の新しい働きを、心に納めて、思いめぐらして、歩んでいきましょう。

それが、主イエスを宿した、主イエスがともにおられる、新しい人、新しいわたしたちの生き方。

パウロはそのことを、コリントの教会に向けて、このように表現しました。

「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

これらはすべて神から出ることであって、
神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、
また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました」


そのように、教えました。

主イエスを宿しているわたしたちは、過去の、自分から、常に新しく創造され続け、古いものが過ぎ去り、新しいものが生じる、そういう命を生きています。

その新しさを、パウロは具体的には、「和解」だと言いました。

「神と人」、そして「人と人」との、和解にいきる、新しさだと。

昨日より今日、今日より明日、さらに人々が、和解し、共に生きるようになっていく。新し人として生きるようになった。

ユダヤ人と、異邦人が、いまや隔てを越え、和解し共に生きていく、新しさへと、歩みだしたように

過去の、戦争の悲しみ、憎しみ、傷による、分断から、

ともに生きる和解へと、神は新しい働きを、今も進めている。

そして、わたしたちを、その新しい働きのために、招いてくださるのです。新しい人へと招いてくださるのです。



今、あらゆるところで、人と人との溝が、分断が、広がっているように見える、この時代に、この世界に、

しかし神は、今日も、今も、新しい和解の働きを、行っています。

わたしたちは、その和解の働きに、人と人とをつなぐ働きへと、招かれました。


あなたがいてくださることで、争いではなく、和解が、つながりが広がっていく、そういう新しい人へと、わたしたちは招かれました。

すべての被造物が、野の獣も、山犬も、駝鳥も、

神をあがめ、共に生きる、

この新しさを、実現するようにと、

わたしたちは、神に選ばれ、神に招かれた一人ひとり。


和解とつながりを作り出す、主イエスを宿した、新しいいのちに生きる、仲間。


さあ、新しい年の最初の日に、

この預言者の言葉を、もういちど、心に納め、

新しい歩みを、歩み出しましょう。


「初めからのことを思い出すな
昔のことを思いめぐらすな

見よ、新しいことをわたしは行う
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。

わたしは荒れ野に道を敷き

砂漠に大河を流れさせる。

野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ

わたしの選んだ民に
水を飲ませるからだ」

祈ります。