今週に入って、何人かの人と電話で話していて思うのは、福音が福音(喜びの知らせ)として聞かれたらいいのになぁ、ということ。
「・・・しなくてはならないんじゃない」とか「・・するべきだ」なんて
こういう外圧によって、自分や人を裁いたり傷つけたり、束縛しあっているんだよなぁ。
外からプレッシャーを与えて、外圧で人を変えよう、支配しようとすれば、行きつく先は、カルトでしょう。
逆の立場からいえば、だれかを恐れてとか、誰かからの承認を求めてとか、そうやって思考停止的に動いているなら、それは束縛状態ということ。
あくまでも、自発的、内発的に、自由な喜びによって、自分にできることを、ちゃんと自分で考え、自分で決断して、させていただく。この自由こそ福音のもたらすもの
この自発的、内発的な自由を与えてくれるはずの福音が、ちゃんと福音として聞かれている現場が、教会のはずなんだよねぇ。
それにしても、白鳥って美しい。
天の父なる神さまが造られたものは、本来よいもので、美しいんだ。