ルカによる福音書6章27節〜36節
「我ら、憐れみ深い父の子」
今年も、暑い8月がやってきました。朝、IさんやNさんと、「暑いですね」と、雑談をしていたとき、Iさんの口からふと、「70年前の夏も暑かったけれども・・・」という言葉がでてきて、あらためて、「ああ、やはり日本人のわたしたちにとって、暑い夏と、あの戦争の記憶は、きっても切り離せないのだな」
と思わされています。
戦争など、二度としたくない。かつて歩んでしまったあの道を、若者たちに、また、歩ませるわけにはいかない。
その思いを新たにする、8月。わたしたちは、平和を主に祈りつつ、一月を過ごします。
あの戦争の時代、いったいなにが起こっていたのか、その悲しみの歴史と、隣人に出会う、その旅に、今、Fくんは沖縄、Y君は東京で、韓国の方と出会い、Mくんは、原爆の傷跡を訪ねて広島への旅をします。
F君とY君は今日まで、そしてM君は、今週水曜日に出発して、6日、広島で平和記念式典にも出席します。
それぞれの現場で、出会う、悲しみの歴史、今にまで続く痛み。
それは、神が愛し、みんな無力な赤ちゃんとして生まれ、ただそこにいるだけで愛されてきた、尊いいのちが、
互いに愛し合うために、神さまが与えてくださった、お互いの存在が、
いつしか、そのように、お互いを見ることが出来なくされていく。
相手にも家族があり、愛する人があり、人生があることが、見えなくされていき、
お互いの、尊いいのちを、滅ぼすべき「敵」として、攻撃し、殺し合っていく。
そんな、愛しあうべきいのちを頂いた、人間が、愛しあうことをしなくなる時、
この世界が、どうなってしまうのか。どんな、地獄が出現するのか、という悲しみの歴史を、
わたしたちは、忘れるわけにはいかないし、
もう、そんな、愛を見失うような、地獄の時代を、わたしたちは、繰り返すわけにはいかないのです。
なぜなら、わたしたちは、神は愛であることを、知っているから。
わたしたちは、神に愛され、互いに愛し合うようにと、一度きりの地上の人生を、今、活かされていることを、
わたしたちは知っているのであるから。
それは、ただ、自分だけを守る。自分の家族だけを守る。自分の仲間だけを守るという愛ではない。
そうではなく、もっと普遍的で、すべての命を愛をもって存在させた、神の愛を、わたしたちは知っている者として、すべての命と共に生きていくことを求め、そこにこそある本当の平和を、わたしたち求めて生きていくものだから。
それは必然的に、「自分を守りたい」という思い、
つまり自分とは違う人、自分に不利益をもたらす人、自分をイライラさせるを、「敵」と呼ばせてしまう、自己愛と、向き合わないといけないことであり、
それは、決して他人ごとではなく、自分の家族だけ、自分に関わる人たちをまず守ろうという自己保存、自己愛との葛藤を、
わたしたちは避けて通ることをしない。ちゃんと向き合うのだということでもあるのです。
あのナチスの官僚、ヘルマン・ゲーリングという人は、こう言ったそうです。
「攻撃されるぞ、と恐怖を煽ることで、民衆などというものは、いつも支配者の思い通りになる。
平和主義を唱える者については、奴らには愛国心がなく国を危険にさらしていると非難しておけばいい。
このやり方はどこの国でもうまくいく」
イラク戦争の時も、イラクは大量破壊兵器を隠していると、民衆の恐怖心を煽り、やられる前にやってしまうという、先制攻撃を、肯定したのは、ほかでもない、1人1人の民衆です。1人1人の中にある、自分を守りたいという恐れです。
恐れを煽る人はもちろん問題。しかし、それと同じくらい、「自己愛」や「利己主義」で、わたしたちは動いていないか、自分自身に問いかけてみる必要もあるのではないでしょうか。
国の平和、世界の平和を願い、国の政治を問うのと同じくらいの熱心さで、私たち自身の生き方、あり方は、それでいいのかと、イエスさまは、今日のみ言葉を通して、わたしたちに問いかけてはいないでしょうか。
27節〜30節
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
今まで、ルカの福音書を順番に読み進んできましたけれども、この8月に、このイエスさまの言葉を聞くことになることの、不思議、摂理を思います。
平和を祈ること。平和をつくりだし行動すること。
それは、あなたに不利益をもたらす、具体的なあの人、この人。目の前の人と、どう生きるのかということと、決して切り離せないし、切り離してはならないことです。
マザーテレサが、ノーベル平和賞の受賞式で「世界平和のために我々はなにをすべきか」と尋ねられたとき、一言こう言いました。
「帰って、家族を大切にしてあげてください」
「平和」を作り出すとは、なにか自分から遠くて、自分に不利益をもたらすこともなく、愛しやすい人を愛する、ということではなく、
むしろいつも顔をあわせる、身近で、イライラさせ、不利益をもたらしてくれる、あの人、この人との間にこそ、
もっともつくりださなければならない「平和」があるという、マザーテレサの言葉と、イエスさまが、あなたの敵を愛しなさいと問いかける言葉は、重なって響いてくるのです。
いつも、自分を守ることと、誰かを攻撃することは、表と裏の関係だから。
国が国を、人が人を残酷にまで攻撃できるのも、突き詰めれば、自分を守ろうとする、自分の利益を求めようとする、自己愛がそこにあるのだから。
その1人1人の中に、染みついている自己愛にふたをして、世界平和、日本の平和を語ることは、むなしいことだから。
むしろ、わたしたち1人1人が、自己愛を少しずつ手放していくために、
神さまは、わたしたちのすくそばに、「敵」を置いてくださったのではないでしょうか。
自分をイライラさせる人を。自分とは違うあの人を。この人を。
わたしたちが、本当の愛、本当の平和というものを、学ぶために、つくりだすために
一番近いところに、もしかしたら、家族の中にさえ、まさに「敵」とさえ言いたくなる人を、
愛と赦し。平和と和解をつくらなければならない、関係を、
与えられることが、あるのです。
昼の祈祷会で読み進めている、カトリックの神父のヘンリナウエンの書物に、このような言葉がありました。
「わたしたちは、望んだほどに愛してくれなかった自分の家族を赦すことができるでしょうか?
強制的だったり、権威的だったり、冷淡で情愛に欠けていたり、家にいないことが多かったり、あるいは、子どもより他人やほかの用事ばかりに関心のあった父親を赦すことが出来るでしょうか?
子どもに執着したり、細かいことに口うるさく、思い通りにしたがったり、別なことに心奪われていたり、食物やアルコールや麻薬におぼれていたり、忙しすぎたり、あるいは、子どもより仕事上のキャリアを磨くことだけに熱心だった母親を赦すことが出来るでしょうか?
一緒に遊ぼうとせず、友達の輪に入れてくれず、人をみくびる態度で話し、自分はばかで、存在価値がないかのように思わせた、兄弟や姉妹を、赦すことが出来るでしょうか?
そこには多くの赦しが必要です。それは単に、自分の家族がよその家族のように、配慮してくれなかったことを赦すというより、
私たちの持つ愛は、すべて不完全で限界があるという理由から赦すのです。
私たちの親もまた、彼らの親から完全には愛されなかった、子どもだったのであり、祖父母たちでさえ、理想の親を持っていたわけではありません。
そこには大きな赦しが必要です。もしわたしたちが自分たちの親、祖父母、を彼らもまた私たちと同じく、愛されることを深く求めていながら、その多くの必要を満たされなかったことを見ることが出来れば、
私たちの怒り、恨み、あるいは憎しみでさえ、乗り越えることが出来るでしょう。
そして、その限りある愛もまた、真実な、感謝すべき愛であったことを、発見することでしょう」
わたしたちは、1人残らず、不完全にしか愛することのできないものです。神ではないからです。
わたしたちは、神ではないから、「自分を愛してくれる人を、愛する」ことしか出来ないのです。
わたしたちは、神ではないから、「自分によくしてくれる人にしか、よいことをしてあげられない」のです。
父親も母親も、神ではないから、「自分の思い通りの行動をしてくれるわが子」は愛せても、
自分の思いとは違うことを、道を歩む子を愛することは、難しいのです。神ではないからです。
34節で「返してもらうことをあてにして貸したところで、どんな恵みがあろうか」とイエスさまは言われます。
子どもを愛するのが、いつか返してもらうためなら、面倒をみてもらうためという、愛とは呼べない、取引に、子どもの心は深く傷つくのです。
だれもが、自分は愛されたくても、完全には愛されなかった心の傷を、心の奥底にしまいこんで生きています。
そして、自分もまた親になり、また子どもたちを、その不完全な愛、条件付きの愛で、傷つけ悲しませることになります。
実は、私たちが求めてやまない愛とは、35節でイエスさまがいわれた完全な愛。
つまり、「敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」という愛だから。
自分に不利益をもたらすあの人さえ、
なにも見返りなどなくても、むしろ奪われるだけだとしても、与え続ける愛。
この惜しみなく注がれる、憐れみ深い天の父の愛こそ、わたしたちは心の底から求めている。
「憐れみ深い」と訳されるギリシャ語は、「他者の苦しみを共にする」という意味なのです。
自分を守るのでも、自分の利益を求めるのでもなく、
あなたの痛みを、ごじぶんの痛みにしていたんでくださる憐れみ。
自分のことばかりになってしまう、愛の足りない私たちを、
そんな不完全な愛に、満たされず、傷つけあい、争い合う悲しみさえ、
すべて知り、その痛みをご自身のこととして覚え、
私たちを深く憐れんでくださり、憐れみ深い天の父の愛。
その証が、まったく、「ご自分を守る」ことをなさらず、
十字架の上で、敵のために赦しを祈り、いのちを捨てたイエスさま。
敵を愛する神の愛を、命がけで示してくださった、イエスさまの姿を通して、
わたしたちは、天の父の、深い深い、憐れみのこころに、今日も預かるのです。
イエスさまの言葉と、晩餐を通して。
今日も、「憐れみ深い天の父の愛」に、わたしたちは触れるのです。
わたしたちが、今、どんなに利己主義の罪にまみれていようと、
利己主義の罪に傷つけられ、裏切られ、苦しんでいようと、
今、「恩を知らないものにも、悪人にも、情け深い」天の父の愛に触れ
完全な神の愛に、今日も、この礼拝を通して触れたわたしたも、
きっと、昨日より、憐れみ深いものとならせていただけるはず。
昨日よりも今日、今日より来週。そうやって、わたしたちはきっと、
敵を愛する、「本当の平和」をこの世につくりだす1人1人へと、
イエスに似るものへと、わたしたちは成長していけるはず。
36節を読んで終わります。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」