お言葉ですから

shuichifujii2011-02-06

 今日は午前中、山形教会で説教の御奉仕。

聖書の箇所はシモンペテロが、夜通し漁をして、なにも取れずに網を洗っている場面から始まるところ。

この説教の準備をしながら、どうもこのシモンの姿と今の開拓伝道の現場がダブってくるわけです。

夜通し漁をした労働が報われないむなしさ。

とてもそのきもちがわかるのですね。

 何枚チラシを配って、何人教会に来てくださるというような計算がなりたったら、何て素晴らしいことでしょう。とにかくくばることで、目に見えて働きが報われることをみさせていただけたら、実に幸い。

 しかし今まで配られたチラシの枚数は延べにして、いったいい何万枚かわかりませんけれども、それで、教会にきた人数をかぞえるようなことをしていたら、そのむなしさに、辛くて続けられなかったなぁと思います。

 なので最初から、チラシを配ることの意義は、それによって、来る、来ないということではなくて、チラシに書かれた福音のメッセージに、触れてくださるだけで、いや、手に取ってくれるだけで、意味があると思いながら、配ってきたので、今まで、続けることができたわけです。

 人間は自分のやっていることの意味や意義がわからないままでは、それをし続けることは苦しいものです。意味と価値を見出すことはたいせつです。

 先日、バイブルランチにきてくださったお母さん方と懇談していた中で、仕事をしないで専業主婦をしていると、なにか周りから遊んでいるように思われてつらい、ということをいわれていました。家事は終わりのない労働なのに、その意義を見いだせないのは、本当につらいでしょう。

ゆえに「そうですか。掃除洗濯、食事の準備、そしてなによりも子育てにまさる偉大な事業はないと、ぼくはおもっていますよ」と申し上げた次第です。


自分のいましていること、してきたことの意味と意義を見出すなら、それに取り組みつづける力と希望が湧いてくるはずです。

さて、シモンペトロは、夜通しの労働が報われなかった朝、網を洗っていた時に、イエスさまから声をかけられて、もう一度、「沖に漕ぎだして漁をしなさい」と言われます。


そんなこと「意味がありませんよ。いままで散々やったんですから」と言っても良かったシモンペテロ。

でも、彼は「おことばですから」といって、もう一度沖に船を出したんですね。

彼にとって、船を漕ぎだした「意味」は、ただそれが「イエスさまの言葉」だから。ただそれだけ


 わたしたちがこの場所で生き、礼拝を捧げ、チラシをまき、子どもたちを迎え、あらゆることをしている根拠は、ただひとつ、イエスさまのお言葉だから。

この「お言葉ですから」というところに、いつもわたしたちがここに生きる意味と意義を確認するのです。業績や結果に意味を求めるなら、むなしさに取りつかれてしまうからです。


シモンペトロの場合は、このあとすぐに大量の魚が獲れることになりますが、ここ酒田では、だいぶ時間差はあるようですね。


 事業仕分け的価値観からすれば、こののぞみ教会は、とっくの昔に、仕分けの対象なんですけどね。いまだに存在していることが不思議。

 それはただ「お言葉ですから」と沖に漕ぎだして網を投げつづけるありさまを、忍耐しながら、見守っていてくださる人々の祈りによるのだなぁと思います。


 いずれにしろ、神さまが始められたことですから、神さまが責任を持って最善へと導いてくださるでしょう。


 さて夕方酒田に帰ってきて、TRさんと礼拝

 お互いに神さまの愛と赦しのまえに心を開いて、分かち合うひとときは、慰めに満ちたひと時。


 ああ、この場所で生きている意味と意義は、ここにあるのだよなぁと、気づかされるひとときなのでした。