自己流説教者論

 説教とは、その時に取り上げられた、聖書のテキストの解き明かし、とよく言われます。

 それはそうなのですが、解き明かしといっても、単なる解説ではないのです。

 説教は「メッセージ」とも言われます。つまり、知的な講義ではなく(そういう側面もありますが・・)、基本的に相手になにかを伝えようとする営みです。

 よく料理に例えることがあります。料理にたとえれば、聖書の言葉、テキストが素材。

 説教者は料理人。いかに、素材を生かして、おいしい料理を作って食べていただくか、ということです。

 「このニンジンは無農薬の畑でつくられ、この鶏肉はブロイラーではなくて地鶏なんです」という素材の説明だけでは、おなかは満たされないわけですな。


 伝える・・「コミュニケート」という側面を強調するなら、説教を音楽に例えてみるのもいいでしょう。


 聖書の言葉は基本的な「動機」「モティーフ」 その曲(説教)のベースとなるもの

 説教者とは、その「モティーフ」を展開し説教を作る作曲者であり、その曲を会衆に伝えてく演奏者でもある。

 まず作曲者は、与えられた「モティーフ」からはなれたら、とんちんかんな曲(説教)を作ってしまう。聖書釈義(字句の意味決定作業)は説教の基礎工事

 さらに、どんな作曲者も、この曲がどういう場で、どういう人々に対して演奏される曲なのかを考えるもの。

 こどもに対する曲なのか、式典における曲なのか、クラッシック愛好家むけ、若者のつどうライブハウスで演奏するのか。

 モティーフが同じででも、受け手が違えば、違うリズムや構成で曲を作るもの。

 いや、「自分は偉大な作曲家なのだから、聞き手に迎合などしない」「わかる人がわかればいい」とひたすら自分の芸術を磨く独りよがりはいけない。

 説教も言葉によるコミュニケーションである限り、受け手に届かなければ意味をなさないから。

 説教作りとは、「わかる人がわかればいい」という崇高な芸術作品ではなく、神のみ言葉というモティーフを、聞きてが子どもなら、こどもの気持ちになり、若者なら若者の気持ちになり、高齢者なら高齢者の気持ちになり、相手の耳に届くように組み立て、発展させ、コミュニケートしていくための作業。


 ここまでは、説教原稿をつくるまでの話
 作曲されたものは、実際に演奏されなければ、音楽として伝わらないように、説教も、ただ原稿を読むだけでは、説教として伝わらない。ですから、実際礼拝に集い、かたられる説教を聞かなくてはならないのです。
 

 そうなると、説教者の演奏家的側面ということも大切になってくる。

 まず、どんな演奏家にも求められているのは、曲に対する正しい解釈と正確な演奏。これは基本。そのための訓練は大事

 そして、その基本のうえに立ってさらに重要なのはなにかといえば、演奏者の「情熱」。

 この曲を、このメッセージを、伝えたいのだ、という「熱い思い」。

 「情熱」のない、覚めた演奏家の演奏など聞くに堪えないもの。いかに「正確」な演奏であっても、伝わらない。正確さが大切なら、パソコンに演奏させればいいわけです。

 人間の存在を「知識、情緒、意思」と分ける三分方があります。知識としてわかっていることを、意思という行動にしていくエネルギー源として、このパッション、「情緒」があるわけです。


 わたしは昔自衛隊の音楽隊にいましたから、経験としてわかるのです。「軍歌」とか「マーチ」って、心の中にある種のエネルギーを与える効果があるものなのです。(ちょっとネガティブなたとえですが) だから、どの国にも軍楽隊ってあるんです。音楽の力を知っているわけです。

 「マーチ」の楽譜をいくら見ていても、心は燃えないでしょう。パソコンの正確な演奏でも、心は燃えないでしょう。

 演奏するものの中にある「情熱」が伝わるわけです。

 ただ説教の場合は、「情熱」といっても、それはただ感情的に煽ることではなく、聖霊によって、「心が燃え」て語るということです。

ルカ24章32節
「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」


 聖霊によって心燃やされて語った説教なら、独りよがりにはなりません。なぜなら、聴く側にも同じ聖霊が宿っているからです。 
もし、独りよがりになってしまうなら、それは、「聖霊」ではなく、「肉」「自我」による「情熱」ということでしょう。



 さて、思いつくまま自己流の説教者論をぶってしまいました。はたして説教を音楽に例えたりして、的外れだったかもしれません。


 でももし音楽に例えることがそれほど的外れでないとしたら、音楽の世界には、「天賦の賜物」、ありていに言えば「センス」が必要なように、説教をするということも、「センス」が必要のように思います。理論や努力研鑽だけでは、どうにもならない部分がある。

 そしてその「センス」については、本人よりも、周りの人の方がよくわかるもの。

 そういう意味で、まず神と周りの人の言葉に聴く「センス」が、説教を語るために必要な賜物、と思う今日この頃。