最近のわたしの説教って

shuichifujii2013-10-18

 今日は日曜日の説教の準備を、一応終わらせました。

わたしはいつも完全原稿を書くんです。実際は、話し出したら、原稿通りには話さないことが多いんですが、それでも、一応全部書き起こします。

もう十年以上、このスタイル。いつか原稿を書かないで、すらすらとお話しできるようになればいいなぁと、思っているのだけれど、自分には難しいみたいです。

毎週語る聖書の箇所は決まっていて、講解説教と言って、聖書の箇所を、短く区切って順番に語っていくスタイルをずっと続けています。

今はヨハネ福音書。今度の日曜日は8章の最後まで来ました。講解説教は聖書を飛ばさないで、じっくりと読むことができるのがいいんです。毎週聖書の箇所を決める手間もないし。でも、どんなに難しい箇所でも、飛ばさずに語るのは、やってみれば分かりますけれども、なかなかチャレンジなことです。

わたしの場合は、まず、その週に語る予定の聖書の箇所を何度も読んで、心に響いた箇所をメモをしたり、黙想する所から始めます。浮かんできたことをメモしておきます。そのあとで、その聖書の箇所の注解書や原語などで勉強して、釈義といって、その聖書箇所の意味内容をなるべく正確に把握するという作業をするのですけれども、最近はあまりその作業に時間をつかわなくなりました。

なぜなら、そういう作業は確かに大切ですし、最初の10年くらいは基礎をつくるためにも、そういう作業をしっかりして、なるべく「正確」な解釈をしたらいいとは思うのだけれど、最近思うのは、聖書の解釈において、「正確」であるとか「より正しい」という、そういうことを主張するとき、かえって限りある人間の解釈を絶対化して、危ういんじゃないか、ということを感じることもあるわけです。

デジタルみたいに0か1か。あれかこれか。これが正しい、あれは間違いという、そういう聖書の読み方は、本質的に福音という神の愛を伝えようとする、聖書の読まれ方として、いかがなものかと思うんです。

ラブレターを読む時に、一字一句分析して、より正しい意味内容を把握するという、そんな読み方しないじゃないですか。

何度も何度も読んで、その文字の向こう側に溢れている相手の愛や、息遣いや、表情を感じようと、そういう読み方をするじゃないですか。

そういう意味で、人格から人格に向かって書かれている文書なのですから、あまり精密に機械的に分析的にバラバラにしないで、ある意味自由に、聖霊に導かれつつ、聖書の本当の著者である神さまの心を少しでも感じて、そこから与えられた言葉で、説教を語りたい、という思いが、年々強くなってきたんですね。

そしてそれは、今、わたしたちの現実の生活を導いているお方も、聖書の著者を導いて書かせているお方も、この時代に牧師を通して聖書を語らせ、聴く人々に語りかけようとしているお方も、同じ神さまであるのだから、生活も聖書も説教も、切り離されずに有機的に繋がるはずだし、それは、ただ唯一、神の霊に導かれて語られる時にこそ、それが実現すると思うわけなんですね。

まあ、そんなわけで、わたしの説教準備は、日々の生活の中で、出会いの中で、聖書の言葉を思いめぐらして、神さまの導きを感じ取って言葉にしていくという、最近は、そんなスタイルになってきて、ちっともむつかしいことや難解な言い回しが、つかえなくなって、高尚じゃないんですよ。

懐石料理には程遠く、お昼のランチみたい。栄養はあるけどね。