聖書的労働観

「神のかたちを持つ人間に与えられた最初の仕事は、神が創造し、良しとされた世界を管理し(創世1:28)、エデンの園を耕し(創世2:15)、被造物に名を付けることだった(創世2:19)。人間の労働は、被造世界に秩序を与え、発展をうながすこと、つまり、世界を管理する働きとなった。神が支配し、いのちを育てられる神の仕事に、人間が召されたのである。人間の労働は、神の代理として行う、光栄で、名誉な、喜びに満ちたものである。人間は、神に代わって世界管理をする働きの中で、神のかたち、すなわち、その人格の尊厳を確認し、その中で人格が成熟していくのである。
 神はこの仕事をひとりだけの人間に託さず、助け人としての女を創造し、彼らが協力して使命を達成するようにされた(創世2:18)。人間の使命は、本来、愛と信頼による自発的で、自由な、楽しい協働によって達成される。かれは人との人格的な交わりによって育てられる。その人間の生活を支えるものは、神と一体化する親密な人格的な交わりである。
 その人間が罪を犯した。その結果、人間の自己防衛と逃避と責任転嫁の姿勢は、神との交わりを損なわせ、世界を管理する力を人間から奪った。人間の社会は、強者が弱者を支配する強制秩序に変わった(創世3:16)。自然は、いばらとあざみを生じ(創世3:18)、人間の労働は食うための惨めな労苦に堕した(創世3:19)。神に代わって世界を支配し、愛する者とともに被造物を管理する、光栄に満ちた、喜ばしく、楽しい労働は虚無に服した。
 罪人がイエス・キリストを信じる時、彼は救われ、その労働も虚無の支配から解き放たれ、神の管理のわざは回復される。そして、その仕事に再び神によって召される。
 しかし、現実の社会と労働は全体として罪の支配下にある。従って、現実の社会でのクリスチャンの労働は、虚無への流れに抗して進められる戦いである。神との交わりが薄れ、召命感があいまいになると、すぐに押し流される。しかし、その戦いの中で彼の品性は練られ、同労者との人格的交わりが育てられる。日々のデボーションと聖日の礼拝が彼の労働をいかす。」