信仰者のあるべき姿

shuichifujii2011-03-19

 旧約聖書のコヘレトの言葉に、このような個所があります。

「 何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多いが、
何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか。」
8章6節〜

 まさに、今私たちが遭遇している大きな災害もまた、だれも予想しなかったこと、考えもしないことが現実になっています。

 さらにこのコヘレトという人は、人生の現実をまっすぐに見据え、そのむなしさを訴えています。

「だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。」8章10節

 悪人が報われ、正しいことをした人が、報われないことがある。そんなこの世界の現実のむなしさを、語ります。

 また、旧約聖書にはヨブ記という書物があります。善良で信仰深いヨブという人が、家族も財産も健康も失う災難にあう。さらに、ヨブは彼の友人から、このような災難が襲うのは、あなたに罪があり、神に裁かれているのだと、責められていく物語です。

 さてここに大きな災難に遭遇した、信仰者の陥る二つの考え方が示されているように思います。
 一つは、「むなしくなってしまう」こと。もう一つは、「神や人を裁く」ことです。

 どちらも、自分はその信仰ゆえにこの世界のことがよく分かっていると思うときに起こります。つまり自分はよくわかっていると思うから、思った通りにならない現実を前に「むなしく」なってしまうし、また、自分はよくわかった気になっているからこそ、「神がいるならなぜ」とか、「天罰だ」とか、神や人を裁くことができるのでしょう。

 しかし、コヘレトの言葉も、ヨブ記も最後の結論はここなのです。

「あなたの創造主を覚えよ」
 「創造主を覚える」とは、自分は限界ある被造物であることを覚えることです。わかった気になっていたことを悔い改めることです。わからないことがあることを認めることです。そして、ただこの世界を造られた真実なお方の前に頭を垂れる。その方を父とさえ呼ばせてくださるイエスキリストの恵みにただただ感謝して、憐みを求めて、祈らせていただくことです。

 それが信仰者としてのあるべき姿のように思うのです。