蒔いたものを刈り取る

 毎朝、御言葉と祈りの時を持ちます。いつも主から教えられ示され、悔い改めさせられます。


 主は、本当に義であり、聖なるお方であることを、心に留めなければならないと思います。


 神さまをなんでも赦してくれる「お人よしのおじいさん」のように、決してとらえてはならないと示されています。


 パウロはこう警告します。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(新約聖書 ガラテヤ6章7節〜)


 イエス様の十字架を信じて、罪赦されるから、なんでもしていいのではありません。クリスチャンであろうとなかろうと、人は、自分の行ったこと、語ったこと、思ったことに応じて、全てを知っておられる神さまから、その報いを刈り取らなければならないことには、なんの変わりもないのです。「神を侮る」ことほど恐ろしいことはありません。


 だからこそ、十字架に寄りすがらなければならないのです。十字架以外に希望はないからです。


 神の義、聖がわからないと、小さなことで自分を誇ります。自分の基準で自己肯定しては満足します。批判に対しては、悔い改めではなく、自己弁護。他者に対しては非難とつぶやきがでます。


これを「肉」と聖書はいいます。


「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6章8節〜)


 悔い改められず、つぶやきや非難、自己弁護の思いにとらわれる。それは、本当に自分を滅ぼします。自分の経験からもそうですが、それで失敗した牧師や、自分が蒔いた実を刈り取らされている人を幾人も知っています。


「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。」


 神の絶対なる義と聖を、侮ってはならないのです。神は自分が何をしようが赦してくれる、単なる「人のよいおじいさん」では決して、決してないのです。


 ゆえに、主イエスの十字架の犠牲だけが、希望なのです。義なる神が、なお人を愛する、その愛のゆえに、御子イエスを罪の刑罰の身代わりに十字架につけられた。


 この神の愛、十字架にすがるしかない、と悟るなら、もはや、人を見て、状況をみて、「つぶやき」という実など蒔いてなどいられません。善いものをこそ、蒔いて生きていきたいのです。


「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(ガラテヤ6章9節〜10節)