振り返れば、みんな恵み。

 皆様から、クリスマスカードをいただきありがとうございます。また今月も祷援会のご支援を主の恵みと、本当に感謝しています。


 わたしたちがここにこうしていられるのは、多くの方々の祈りと、お一人お一人の、血を流すような献金による支えによってです。心から感謝申し上げます。


 酒田にきて2年と数ヶ月ですが、沢山の方との出会い、そして沢山の恵みが与えられました。


 当初、家族だけの礼拝でしたが、今は毎週、2人〜5人くらいのかたと、一緒に礼拝を捧げることができるようになりました。


 去年から始めた「聖書を読む会」には、今まで12名の新しい方がきてくださいました。


 また当初から経済的なめどなどないまま、酒田に飛び込んできたわたしたちでしたが、一年経って神様は、ある人々を通して、祷援会を作って支えてくださるようになりました。


 これらみんな、わたしたちの力ではありません。一つとして「頑張ればなんとかなった」ものなど、ないからです。酒田にきて思い知らされてたのは、自分は本当に「無力」だということです。それを教えられた2年間でした。


 酒田に来た最初は「何とか頑張らなくては」と自力で頑張りました。しかし、堅い壁のような現実の厳しさの前に、しばらくして、鬱状態に陥りました。なにもできない。本も読む力もない。そういう状態がしばらく続きました。


 やがて「聖書を読む会」を始めますが、当初もまだ鬱状態を引きずっていました。それにくわえ、「聖書を読む会」にだれも新来者はこない。次の月も、だれも新しい人はこない。正直、集会をするのが辛くてしょうがありませんでした。「もうできない」という思いになり、次の月の「聖書を読む会」はやめにしました。そして、山形教会の川上先生や、仙台教会の山下先生と、いろいろ話す時をいただくことにしました。


 そして、ゆっくりと話をきいていただいている間に、なにか自分のなかで何かが変わってゆきました。山下先生は、わざわざ酒田にまで来てくださって、一緒に食事をしながら、ただ、わたしたちの話を聞いてくださいました。その交わりのときを通して、なにか言葉ではうまく言い表せませんが、なにかとても心が楽になったのです。「自分で頑張らなくては」「これではだめだ」と「自分を責めつづけて」弱っていた心が、「そのままでいいんだよ」と山下先生にすっかり受け止められた気がして、不思議な喜びが沸いてきたのです。


 「無力」ゆえに自分自身を責めていた自分。「頑張らなくては」と苦しんでいた自分。しかしそんな「無力」な自分を、「罪」ある自分を、しかし、そのありのまま愛し、赦し、受け止め、立ち上がらせてくださるのが神様の愛なのだ、イエスさまの十字架の恵みなのだと、牧師として、語ってきたはずなのに、その自分自身が、その神の愛から離れて、自分を責め続けていたのです。しかし、もう一度、神の愛のなかに安らぎ、「ああ、自分はこのままで愛されているのだ」と、自分を責めることをやめたとき、本当に心が楽になり、不思議な喜びが沸いてきたのでした。


 そして、楽になって、神様への感謝と喜びの気持ちをもって迎えた、翌月の「聖書を読む会」。そこに、初めてチラシをみてやってきた方が与えられたのでした。それから不思議にも、毎月、1人、2人、ある月は5人という具合に、初めての方がきてくださいました。今までのことを思えば、ありえないことです。そして、まさに神業としか思えないような仕方で導かれたTRさんを初め、その後、エホバの証人から逃れてきたOさんYちゃんとの出会い、礼拝になんどか来てくださったIさん、看板をみてこられたOKさん、同じく看板を見てお祈り会に来てくださったAさんなど、次々に不思議な出会いが与えられました。


 自分の「無力」さを認めて、自分の頑張りを捨てさるのを、神様は待っておられるのでしょう。神様の恵みに委ねるところからこそ、神の業は始まっていくのです。


パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(1コリント15章10節)といいました。


本当にそうです。全ては神様の恵みです。
アーメン


「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。」(詩編103編)