昨日の日曜日は、酒田のぞみキリスト教会からIさんが礼拝に出席してくださいました。
わたしたち藤井家族が酒田から離れる直前今年の3月1日に、私の一番下の息子と一緒にバプテスマ、いわゆる一般で言うところの洗礼を受けて、クリスチャンとして歩み始めたばかり。
約1年ほど前、わたしの家族と、あとひと組のご夫妻だけで、酒田で日曜日の朝に家の教会で礼拝を捧げていた時、Iさんは家の教会に来られたのでした。インターネットでわたしたちの小さな教会を探したのだそうです。
当時Iさんは聖書も持っていなかったし、読んだことさえなかったのでした。酒田の、それも市街地ではなく山の奥に住んでいるIさん。よく小さな家の教会を見つけて来てくださいました。
それで、聖書の入門クラスを始めて、はじめは、まったくわからなかったイエスさまの言葉の意味が分かってきて、神さまに愛されていることに目覚めてきて、教会に行くのが楽しくなってきたのに、わたしたち家族が、酒田を離れなければならなくなってしまった。
その時、Iさんにチャレンジしたんです。
「Iさんは、イエスさまを信じているでしょう。神さまに愛されていることが分かったでしょう。わたしたちが酒田にいるうちに、バプテスマを受けましょう。大丈夫。後は神さまがちゃんと責任を取ってくださるから」
牧師の自分がもうすぐいなくなるというのに、そんなことをいう、本当に無責任な牧師です。
でも、人間が、神さまの救いの出来事に、最終的な責任なんてとれるわけがないのです。むしろ、牧師ではなく、イエスさまにしっかりと結びついている、ということのしるしとして、バプテスマを受けるのだから。
Iさんはそれに応えて、信仰告白をし、バプテスマを受けました。牧師がいなくなるとわかっていても、いや、むしろ、そうであるからこそ、牧師じゃなく、最後の最後までちゃんと責任をとってくださるイエスさまに、しっかりと結びつくために、バプテスマを受けた。
今、酒田の伝道所の母教会の山形教会から、毎週車で2時間かけ酒田まで行き、Iさんと礼拝してくださっています。二人、三人だけの礼拝をしています。
人間は最後まで人の人生の責任は取れない。でも、主イエスは、最後まで責任を取ってくださる。
バプテスマとは、人間の決断であるという以前に、神さまが招いて、神さまが授けてくださる、神の出来事なのだから。
バプテスマを受けたからといっても、罪はあるし、失敗するし、絶望するときもあるかもしれない。
でも、あなたを決して神さまの愛から引き離すことはできない、という、神の恵みのしるし、立ち戻る原点が、バプテスマなのだから。
どうぞ、バプテスマがまだのかた。
バプテスマを受けましょう。