すでに蒔かれていたみ言葉の種

 今日はTさん、Oさん、Yちゃん、Iさん、播磨先生、私たち家族5人の10人で礼拝。
Iさんは7月から礼拝にいらっしゃるようになって、最近二週間ほどお休みしておられましたが、今日、出席してくださり、感謝でした。


 礼拝のなかに、一週間の恵みの分かち合いや、祈りの課題を分かち合うときがあります。Tさんが、以前合唱曲で歌っていた曲のラテン語を「ペラペラ」と語られ、「これは、イエスキリストが、私たちの罪のためにポンテオピラトによって十字架につけられた、という意味なんですよ。当時はよく意味がわからず歌っていましたが、この教会に来るようになって、少しずつその意味がわかるようになりました」というお証。すごいことだなぁと思います。み言葉の種は、教会にくるはるか前から、神様によってTさんのなかに蒔かれていたのでした。


 Oさん、Iさんも、祈りの課題や、悩みの心のうちを、涙のうちに分かち合ってくださいました。そしてお互いのために、熱く祈るとき、心の奥底に熱い感動を覚えました。

 分かち合いのあと歌った「人生の海のあらしに」という賛美歌です。


人生の海のあらしに
揉まれきしこの身も
ふしぎなる神の手により
命びろいしぬ

いと静けき港に着き
われはいま安ろう
救い主イエスの手にある
身はいとも安し


アーメン。主に感謝いたします。