仏壇について

 今日、ツルハの側の看板をみて教会を訪ねてこられたご婦人がおられて、妻が対応しました。お話しするなかで、「仏壇」をどのように考えるのかという話題があったようです。


 さて、一部のクリスチャンの方々は、「仏壇」を偶像礼拝と見なし、否定的に扱います。さてこれは本当に正しい態度でしょうか。


 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の佐々木正明という方がいます。フィリピン北部の山岳部族伝道を中心に、23年間海外宣教に従事した先生ですが、この方の書いた宣教論の文章のなかに、このようなくだりがありました。


「・・・しかし、今宣教上の問題として取り上げようとしているのは、西欧キリスト教が愛と正義を高々に振り回しすぎ、本来望ましい日本の和をも打ち壊してしまっているということです。例えば、イエと家という共同体は、西欧個人主義の精神からすると間違っているかもしれませんが、聖書的には十分許容されるべきものです。現在の日本文化では、イエも家もまだまだ大切なものです。大切な機能を果たしています。


 日本に離婚が少ない理由、訴訟が少なく弁護士が不要な理由、カウンセラーという人種が不要な理由、犯罪が少ない理由、そういう理由の最大のものに、イエと家の文化が挙げられるのです。もちろん、イエと家の文化には、大きな欠点と数々の問題があります。しかし、私たちはイエと家を罪悪かのように取り扱う西欧個人主義と結託したキリスト教で、イエも家もなくしてしまおうとするのではなく、イエと家が存在しているうちは、それをより良いものにするべきなのです。


 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という聖書の約束は、イエと家の存在を前提にしていわれているのであって、欧米個人主義の影響でイエも家も消滅しかけた文化の中で語られているのではありません。その約束を、本当の意味で自分のものにするには、その前提となるイエと家の文化を取り戻さなければならないのです。


 例えば仏壇を取り払ったり、焼き払ったりするのは、イエと家に対する無理解であり、日本文化への挑戦になるのです。先に述べたように、大多数の日本人にとって、仏壇は信仰の対象ではなく、信仰心の表現でもなく、イエと家のかな目の象徴なのです。クリスチャンたちの多くは、仏壇や位牌を信仰の対象と見たり、先祖崇拝の表現と見たり、はなはだしい場合には偶像と見ています。もっと酷い場合には、悪霊の住家とさえ考えています。悪霊の住家の場合もあるかもしれませんが、悪霊なんてものは、そこらじゅうにいるのです。何も仏壇だけを恐れたり毛嫌いする必要はないでしょう。むしろ教会堂を住家にしている悪霊もいるかもしれないと用心した方が良いでしょう。・・・・・」


 異論反論あるでしょうが、今までの日本宣教論が見落としていた大切な課題を指摘しておられると私は思います。


 クリスチャンではない多くの方々にとって「仏壇」とは、そこに神がいると本気で信じて拝んでいるような、「信仰の対象」ではなく、今は亡き愛する家族を想い、また家族親戚のつながりを大切にしていくためのひとつの「媒体」なのだと思います。


 過去、西洋からきてくださった宣教師の方々のなかには、この「仏壇」を過剰に意識し、偶像と扱い、これと戦うことが信仰の戦いであると、指導された方もおられたようですし、未だにその伝統を受け継いでいる教会もあるようです。また、仏式や神道の葬儀への参列、お墓についても同様な問題点があります。

 
 一刻も早い、聖書的な日本宣教論の成熟を、切に望みます。