礼拝の喜び

 今日はMさんご夫妻は新年会のためお休み。家族で礼拝です。今日は風が強かったのですが、訪ねてくる人が入りやすいように、玄関は少し開けたままにしておきました。
 酒田に来てから、家族で礼拝する日を沢山与えられています。今日あらためて、これは神様からのプレゼントなのかもしれないと、感じました。この貴重な体験を通して、あらためて礼拝にのぞむ自分の心を見つめることができたからです。イエス様は「霊とまことをもって礼拝する」ことを教えられましたが、目に見える状況に依存しないで主を崇める心。そして聖霊が与えてくださる喜びに心を開くこと。このことを深く悟るための信仰の訓練なのだと思うのです。
 かつて百数十名での礼拝を捧げていたとき、この自分の魂は、この「霊とまこと」による礼拝者であっただろうか? 当時、礼拝において、なにを喜んでいただろう? 集会の人数を数えて喜んでいたのではないか。すばらしい音楽、会堂、また、誤解を恐れずにいえば、よい説教をよろこんでいたことはないか? そのようなものは究極的には、礼拝における手段でしかなく、礼拝の本質は、ただ、主ご自身を、霊とまことをもって崇拝し、感謝を捧げることにつきるはず。目に見える状況に依存しないで、霊とまことをもって捧げる礼拝者としてもっと深く成長したい。パウロとシラスが鞭打たれた獄中の中で、喜びに満ち溢れて主を賛美した礼拝。そのような礼拝の喜びを深く知る主の訓練として、今、家族だけの礼拝が恵みとして与えられているのではないかと、今日、そのように心に感じたのです。