お祭り

shuichifujii2013-04-18

 昨日は午後いっぱい、今日は朝から1時ごろまで、男の子たちは家々をめぐっては一軒々々「あめでとうございます」と挨拶し、奴ふりを踊ってまわる。

二日で400軒を二班に分かれて回ると聞いた。これは結構きつい。気温は10度ちょっと。ときどき小雨。

家のまえで踊った後に、御礼でお菓子を頂く。子どもたちが身につけているビニール袋はお菓子で沢山。

そして午後の2時からは祭りの行列の先頭で踊りながら歩き、子どもたちの出番は終わり。おつかれさま!!



さて、私たちの教会がある地域は、一見住宅地。でも、実は古くからの農家が多くある地域。

その昔、この町は、酒田市と合併することを拒むほどの気位の高い町だった。その伝統は今でも残っている。

5月には酒田まつりがあって、これは、酒田市をあげて取り組む大きな祭り。

一見すると、酒田まつりは酒田市全体の祭りだと思われている。でも、実はそうではないのだ。

私たちが住んでいる地域の祭りは、今日のこの祭りであって、酒田まつりは、「あっちの町の祭り」でしかない。

平日の昼間で、仕事があるとかないとか関係なく、この日程を守りつづけているこの地域の大切な祭り。

そもそも祭りは、観光客相手の人集めではなく、この地域に生きる人々の繋がりを確認しあい、喜びあう大切な時間なのだから。

その繋がりの真中に、人にいのちを与え、農作物を実らせ、そのいのちを育んでくださっている「お方」への畏敬があるし、それによって互いに結ばれているのだ。

まさにその「お方」への感謝と畏敬をもって、共に祭るところに喜びがある。この「お方」によってこそ、繋がりあえる喜びを実感する時。それが祭りというもの。

さて、その大いなる「お方」とは、あっちの町、こっちの村と、地域限定でそれぞれ担当者がちがうという、スケールの小さな「お方」なのだろうか。

いのちを与え、いのちを育まれる「お方」とは、そのような限られた地域だけしか守れない、活動できないお方なのだろうか。

そんなわけがない。いのちを与えたお方とは、この宇宙を創造したお方のはず。そして、時代も地域も文化も超えて、御自分が創造なさった「いのち」を、とことん愛し慈しむ「お方」じゃないか。わたしは聖書からそういう確信をもっている。

その「お方」のことを、イエスさまは「天の父」と教えてくださった。そしてその「お方」をつい、地域限定にしがちなわたしたちに、そんなある場所とか、ある人種とか、ある文化などに縛られなくても、どこでもだれでも、その「お方」をお祭りしていいんだよと、教えてくださった。

 たしかにあっちの祭りもいいし、こっちの祭りもいい祭り。でも、できれば、一緒になってその「お方」を祭って繋がりあえたらもっといい。

 あの町の人も、この町の人も、あの国の人も、この時代の人も、みんなその「お方」によって繋がりあえる喜び。

 それは時代も地域も文化もこえた、「お方」をこそ真中に祭るときに実現する喜び

 お互いの違いを乗り越えて、ゆるしあったり、受け入れあえる仲間となれる喜び。

 そんな究極の平和を目指した普遍的な「お祭り」がきっといつか実現する。いやもうすでに。

 その一緒におこなうお祭り(この宇宙を造られた神さまへの礼拝)へとわたしたちを招いてくれるものこそ、「福音」、『良い知らせ」であるはずだ。









ヨハネによる福音書4章19節〜
女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
エスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。