つれづれと

shuichifujii2011-03-06

 毎月、第一日曜日の午前中は山形キリスト教会で説教と晩餐式の奉仕をさせていただき、山形のみなさんと共に礼拝を捧げて力をいただいています。

今回は月山道がなだれのため通れなかったので、片道2時間半ほどを下道で行きました。

美香と妻は熱のため、家でお休み。男三人、三羽ガラスで旅立ちました(笑)

帰ってきて4時から酒田で礼拝。いつものみなさんはいらっしゃらず。熱が下がった美香が礼拝に出てくれて、二人で礼拝。

酒田の礼拝のために用意した説教原稿は捨てて、美香のためにポイントを絞って分かりやすくメッセージ。
(もったいないので、教会のHPにアップしておこう。http://nozomikyoukai.com/diary.cgi?no=100


さて夜になって、もう日は過ぎているのだけれども、子どもたちがわたしの誕生日祝いにプレゼントや花やケーキやカードをくれました。

それらはみんな自分のお年玉でかったのだと後で妻から聞いて、すこしうるうる。

おとうさんは、ふがいないのだけどね。家族に支えられています。


神はあえてご自身を隠れるお方。みえていたつもりが、みえなくなることがあるものです。

詩篇から、信仰の先達の言葉を読むとき、それはすぐにわかります。

「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」詩篇13編2節

このような調子で始まる詩編がなんと多いことか。神はあえてご自身を隠されるのです。

そして詩編はそのような嘆きと賛美が繰り返されていきます。まさに信仰者の人生の現実をたどるようにして。

そしてこの詩編の結論は、

「あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び踊り
主に向かって歌います。
『主はわたしに報いてくださった』と」13編6節

と終わる。

すべての道程は、神の慈しみに依りすがるものとされていくためだったと、語るかのように。

そう思うとき、自分自身も実に深遠な時と経験をいただいていることに気がつかされるのです。