パウロの祈りに学ぶ

フィリピの信徒への手紙 1章8〜11節
1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 この偉大なクリスチャンの先輩が、何を大切に祈ったのかを学んで、自分の祈りに活かしたいと思います。

 まず、パウロという人は、フィリピの教会の人々を愛し、彼らのために毎日祈っていたのですね。そして、本当に祈っていたかどうかは、祈りを聞いてくださった神様が証してくれるよと、8節ではそこまで言います。素晴らしいなと思います。そして、じゃあ、あなた方のために、どのように祈っているのかと、その祈りの内容を書いた。ただ、神様、「だれだれさんを祝福してください。守ってください。」という祈りじゃなくて、もう少し具体的に、このように祈っているんだと、パウロは祈りをここに記します。
 さて、このパウロの祈りをみるときに、あらためて気がつくのは、彼の祈りは、目の前のことを越えて、終末のとき、この世の完成まで見据えている祈りだということです。10節後半ですね。「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と彼は祈っているでしょう。目先ではなくて、未来の希望をしっかり見て祈っている。今回、あらためて、じぶんもこういう祈りを、家族のためにとか、お互いの為にしているかなと、思わされました。みなさんはどうですか。私たちが、愛する人々の為に祈る時、健康が支えられますようにとか、今直面している困難が取り除かれるようにとか、平安が与えられるようにとか、そのような祈りを私たちはいたしますし、もちろんそれは大切な祈りですけれども、しかし、このパウロの祈りをみるときに、果たしてそれだけで良いのか。なにか、私たちの目が、あまりにも目の前の事々、や問題にとらわれて、かえって、祈りがまずしくなっていないだろうかと、そんなことをおもうわけです。

 こんな話を聞きました。17世紀。イギリスが内戦状態だったとき、多くの牧師達が牢に繋がれたそうです。その牧師たちが家族に宛ててかいた手紙が今も残っているそうで、その手紙をみてみると、あまり、自分の家族の健康や安否を問うようなことは書いておらず、あの人の信仰は大丈夫か、あの人はしっかり福音に立っているか、信仰を捨てていないか、そのような記述ばかりであったそうです。目先のことよりも、永遠に価値あることに目を注ぐ。そんな信仰の先達がいたからこそ、私たちのところにまで福音は届いているわけですけれども、では、もし今、自分が牢に繋がれたら、どうするだろう。愛する者の健康よりも、その信仰が確かであるようにと、そのことに祈りを集中できるだろうか。目の前の問題の解決をこえた希望をみて、祈ることができるだろうか、そんなことを問われる気がします。

 さて、そんなパウロの祈りですけれども、もう一つ、彼の祈りから気がつくのは、愛が豊かになるようにと祈っている、ということであります。愛はいつまでも絶えることがないと、聖書にありますけれども、愛にこそ永遠の価値があるのであるなら、愛が豊かになるように祈るということでしょう。相手の生活が豊かになるようにとか、健康が守られるようにというよりもなによりも、まず、相手のために、その愛が豊かになるようにと祈ったパウロ

 どうぞ、牧師の愛が豊かになるようにと、祈っていただきたいなと、切に願っています。牧師なのに愛がないと、自分自身おもいますけれども、ですから、ほんとうに、祈って頂きたいなと、思います。しかし、どんな人も、愛が豊かになるようにと、祈られる必要などないひとはいないと思うのですね。でも、実際、「あなたの愛が豊かになりますように」と、だれかに祈られたら、正直、カチンとくるのではないでしょうか。それって、わたしに愛がないってこと? そう感じるかもしれません。クリスチャンは自分の愛にプライドを持っていたりしますからね。ですから、この祈りは、祈るよりも祈られるほうが難しい。あの人の愛が豊かになりますようにと祈るよりも、私の愛が豊かになるように祈ってくださいとお願いするのは難しい。どうでしょうか?

 しかし、神様の愛は、祈りによってのみいただけるものですから、やはり祈らなければならない。愛が豊かになるようにと、祈り、そして祈られていく必要があると思います。ですから、お互いに、どうか、私の愛がもっと豊かになるように、祈ってくださいと、そう言い合えるようでありたいと、願うわけであります。

 さて三つ目のポイントは、愛が豊かになるために、9節で、「知る力と見抜く力」を身に着けるようにとパウロは祈っているということです。口語訳ではここは「深い知識において、するどい感覚において」と訳されていました。とにかく、愛が豊かになるといっても、それはただ感情的な話ではなくて、愛が豊かになるための信仰的な知識や霊的な感覚というものも豊かにならないといけない。それもまた祈りによって与えられるということであります。

 お恥ずかしいことですけれども、わたしの両親も、そしてわたしには妹が二人おりますが、みんな離婚経験者なんです。わたし以外、全員です。どうやら離婚のDNAを引き継いでいるのかもしれません。しかし、よく考えてみれば、夫婦というものは、実に不思議な関係であって、何万、何十万という人の中から、まったく生まれも育ちも性格も違う二人が出会って生涯を共にする。これは、とても好きだという感情だけでは続かないのがむしろ当たり前だろうと思います。実際、夫婦にはいろいろな試練の時がある。しかしそのような時、「神様が私共を選んで結ばせて下さった」という、この信仰からくる知識、これは信仰ゆえの知識といえると思いますけれども、この知識がお互いの愛を豊かにするということはあると思うわけであります。
 教会員のある方から聞いた話ですが、ある時、クリスチャンの奥さんにきいたそうです。自分の身内のことで、たいへん苦労をかけてしまって、申し訳ない。本当に自分と結婚してよかったのか? そんなことを聞いた。そうしましたら、奥さんは、こういった。「そんなことを聞くのは、二人を結ばせて下さった神様に申し訳ないことだ」 この二人を結んでいる愛とは、これは、単なる感情ではありません。そうではなく、神が二人を結ばれたという、信仰にもとづいた知識を土台にした愛。聖書の御言葉の知識を土台とした愛が、試練の中にあっても、二人を結びつけているわけであります。

 霊的な目が開かれて、知る力と見抜く力が豊かになるとき、愛もまた豊かになる。そんな霊的な目が開かれて、御言葉に活かされていくよう、互いのために祈り求めていきたいと思います。

 最後に、パウロの祈りのポイントは、10節「本当に重要なことを見分けられるように」という祈りであります。何が大切なことで、何が大切でないのか。何が核心で、何が枝葉なのか。この優先順位を本当に悟るためには、そこに祈りが必要だということであります。教会の中でもこの優先順位が混乱すると、問題が起こってくる。ある教会では、日曜日に教会の入り口のドアを全部あけておくか、半分あけておくかで、もめにもめて、総会を開いた結果、教会が分裂したという話を聞いたことがあります。関係ないわたしたちにとっては、なんでそんなくだらないことで教会が分裂するの、とおもいますけれども、当事者にとって見れば、ドアの問題は、何にも勝って重要な問題になってしまったわけであります。これは人ごとではなくて、わたしたちも、本当に日々、祈らなければ、なにが大切なのかわからなくなってしまうことがある。人間だれしも自分のしていることがいちばん重要だと思うものだからです。だから、神様が本当は、違うことをさせたいと思っていても、自分が今、一生懸命していること、頑張っていることをやめることは、なかなか出来なかったりする。やはり、そこには祈りが必要なのであります。この「本当に重要なことを見分けられるように」という祈りを欠かさずに、いつも霊の目が開かれて、本当に大切なものに、自分を献げて生きていけるようにと、そのように祈り求めていく。これは本当に日々、祈っていきたい祈りだと思います。

 イエス様は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われます。「これらのもの」、つまり「食べること、着ること」も大切です。どうでもいい問題ではありません。しかし、私共が一番大切なこととして、第一に願い求めるべきことは、やはり、神の国と神の義です。そして、この順番を間違ってしまうと、道を誤ってしまう。
 信仰生活とは、なにも特別なことではなく、日々の生活のなかで、祈りながら、ただしい優先順位をつけて生きていく。大切なことを一番にする。神を一番にするということであります。そこに大切なのが、祈り。永遠に価値ある事を一番に、愛が豊かになることを一番に、そうやって、神様に喜ばれる人生を生きていくために、どうしても必要なのが、この祈り。

パウロの祈りから、祈りのあり方について、思いを連ねました。