「粘り強い祈り」

 フォーサイスは「祈りの精神」という本のなかで、こういいました。「われわれはあまりにも早く『み心がなりますように』と祈りやすい。しかし、あまりにも簡単に事態を神の意志として甘受することは、柔弱や怠惰を意味するのである。神の意志に打ち勝つほどに祈ることが神のみ心であり、神のより高い意志の実現を目指して、頑強にねばり強い祈りを捧げることが、さらにみ心にかなうことなのである。」(P.49)
 現代はお腹がすけば、すぐにコンビニやらファーストフードで空腹を満たすことができ、ほしいものは、すぐインターネットで注文できる時代です。なにかを求め続け、待ちつづけるという体験をあまりしなくなりました。そして、ともすると祈りにおいても、「どうせみ心がなるのだ」とすぐあきらめ、粘り強く祈りつづけるという体験が失われてはいないでしょうか?
 列王記下20章にこんな出来事があります。病気のヒゼキヤ王のもとに、イザヤがきて「あなたは死ぬことになっているのだから、遺言をしなさい」と言います。イザヤは預言者です。ゆえに彼の語ることは間違いなく神の御心です。それでは、ヒゼキヤは「ああそうですか。神の御心ではしかたがない」と言ったでしょうか?。そうではなく、彼は必死に、助けて下さいと泣いて祈ったのです。そして、その祈りに天の父は答え、彼の命を15年引き延ばしたのでありました。
 イエスさまはあきらめずに祈り続けよと弟子たちに教えます。そしてご自身もゲッセマネの園で、父のみ心を知りながらも、最後までねばり強く、「できればこの盃を取りのけてほしい」と祈られたのでした。その粘り強くも激しい祈りの一番最後に、主は「み心がなりますように」と祈られたのです。この言葉は祈りの最初にくるべき言葉ではありません。ねばり強く祈り続ける祈りの一番最後に来るべき言葉なのです。