無規範なキリスト教?

 政治学者の小室直樹氏は、日本には仏教や儒教キリスト教が入ってきているのに、イスラム教に限って入ってきていないのは、日本人が本来規範が嫌いな民族だからだと言われます。仏教の本質は戒律のはずだが、仏教が日本に入ってくると、その本質が代わって「日本教」になってしまった。その点、イスラム教の法はあまりにも論理的で厳格であったので、修正して「日本教」に出来なかったのだろうといいます。それに対して、キリスト教は無規範の宗教なので、日本に入りやすいはずだとも言われています。(論理の方法P.284)。

 さて、イスラム教のことはともかく、キリスト教には規範がないというのは本当でしょうか?。確かに、人は律法の行いではなく、キリストを信じる信仰によって救われると聖書は説くわけですが、だから、キリスト教は無規範な信仰なのでしょうか?。規範がないということは、戦争しようが、人を殺そうが、姦淫しようが、なにをしてもかまわないということです。ところが実際は、クリスチャンになると、全く逆に道徳的、規範的に振る舞うようになって、その姿が証となって人々に伝道してきたというのが現実なのであります。どういう事でしょうか。それは、イスラム教もユダヤ教も、人間の外側から規範を与え行わせようとしますけれども、キリスト教は信仰によって救われた人の内側に規範(律法)を与え、同時にそれを行う力(聖霊)を与える(ロマ8:4)のであります。ですからキリスト教が無規範だというのは違います。「行いではなく信仰によって救われた」ということは、「無規範に何をやっても良い」ということではないのです。無規範なキリスト教とは、キリスト教ではなく、「日本教」のことを言っているのだと思います。


ローマ書8:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」