二面性

 「どうしてあんないい人が、あんな事を」という事件がたまに起こります。
人には他人に見せている顔とそうではない顔があるのでしょう。
善の顔と悪の顔と言っても良いかもしれません。
クリスチャンにもありますね。
聖書から良いことは何かを知り、自分の口で語っていながらも、心の中ではそれとは反することを考えることもある。語っていることと行動がちぐはぐになるということがクリスチャンにもあります。(ロマ7:21)
 ある人は、そういう二面性は人間の常識であって仕方ないことだといいます。
 自分が心で思っていることをそのまま口にしたら、人を傷つけるだろう。だから、心で何を思おうとも、顔はいつもニコニコしているべきだとか、その反対に、どうせそのようにして心の中を偽り、クリスチャンらしく振る舞っても、それは「偽善」なのだから、心の思うままに生きればいいではないかと言う人もいます。どちらも、クリスチャンにとってこの二面性は仕方ないものだという前提の議論です。
 しかし、クリスチャンは、その二面性を、仕方ないのだと開き直らなくてもいい、ある意味特権をいただいていると思うのです。その二面性という罪を、悲しみ、悔い改め、神さまの赦しと助けを求めて祈る事が許されているという意味において(2コリ7:9-10)