出会いと交わりの豊かさを味わいたいから

shuichifujii2017-11-28


人生の時間には限りがありますから、できるだけ日々の時間を有意義に過ごしたいものですね。


人それぞれに、なにを有意義と感じるかはそれぞれだと思います。


一人だけでゆっくりと過ごす時間が有意義に感じる時もあるでしょうし、誰かと一緒に語り合い、心を通わせる時間を大切に感じる時もあるでしょうね。

しかし、一人で過ごしている時にしていることをよく考えてみると、たとえば、誰かが書いた文章をネットや本で読んでいたり、誰かの歌や映像をテレビやラジオで楽しんでいたりすることも多いのではないでしょうか。

つまり一人でいる時でさえ、自分とは違う誰かとのコミュニケーションを、楽しんでいるものなのです。

今、このブログを読んでいるということも、まさにそういうことですね。この文章を読むということは、実は、これを書いている私との出会いと交流を楽しんでいる(どう感じるかはそれぞれですが・・)ということなのです。

そういう意味で、私たちは常に誰かと出会い続けていますし、誰かとの交流を必要としているのです。

一見「ネットばかりして、一人で引きこもっている」ように見える人がいるとしても、実は、人との出会いと交流を欲しているからこそ、ネットの世界でツイッターとかブログとかを書いたり読んだりして、またオンラインのゲームでだれかと繋がったりするのでしょう。

人は一人では生きられないし、一人で生きてはいけない。人は他者と出会い、交流し、影響を与え合う中で、本当の自分へと成長していくものなのでしょう。

ですから人との出会いと交流は、まさにお金には変えられない宝なのですね。



先週の土曜日の朝、私のフェイスブックを何気なく見たら、友人の具志堅先生が沖縄から東京に来ると書いてあったので、とっさに「あいたいですねぇ」と書き込みました。

そうしたらすぐに「そうですねぇ」と返事が来たので、「日曜日の夕礼拝でお話できますか」とお願いしたわけです。

突然のお願いでしたのに、具志堅先生は快く引き受けてくださいました。

そのやり取りをフェイスブックで見ていた何人かの方が、夕礼拝にきてくださいました。

その中にはたまたま、花小金井の隣の駅に、その日宿泊していたゴスペル歌手の方もいて、夕礼拝に駆けつけてきてくださって、一曲賛美を歌ってくださったのでした。

このような、思いもしなかった出会いと交流が与えられるとき、人生の時間が豊にされたことを感じます。

土曜日の朝、わたしがフェイスブックを見たその場で、すぐに声をかける決断をしなかったら、この出会いはなかったことでしょう。

人生はそういう出会いの豊かさを体験するチャンスが、神様から沢山与えられているのだと思います。

一歩踏み出してみれば、失敗することや傷つくリスクも増えるわけですし、

「出会い系サイト」のような、人を利用しようとする人との出会いは、避けたほうがいいわけですけれども、

一方で、なにも自分からは動かず、あらたな出会いも交流もないままに、限りある人生を終えてしまうのも寂しい。

神様が与えてくださる新しい出会いと交流へ、

今日もちょっと勇気を出して、小さな一歩を踏み出してみたいものです。