人は一度聞いただけでは、なかなか記憶に残らないものですね。
ですから語学学習も繰り返し聞くことが基本となっています。
本も一度読んだだけで、その内容を誰かに伝えることはなかなか難しいものです。
大切な本は、何度でも読み返すことで、しっかりと記憶に定着するでしょう。
聖書を何度も読み返したり、毎週教会で礼拝メッセージを聞き続けることで、
しっかりと記憶に定着していくことでしょう。
ただ礼拝メッセージについては、毎週違うメッセージがなされるので、記憶するという点では弱いのです。
そういう理由もあって、このブログにメッセージの原稿を掲載しています。
記憶に残らなければ、行動も変わりません。
ここでもう一度読み返し、メッセージを記憶にとどめることで、行動に変化が起こるなら、
その人自身はもちろん、周りの人の人生にも、よい影響が波及していくことでしょう。
それなら、礼拝には行かずに、このメッセージの原稿を読んでいればいいのでしょうか。
そうではないのです。
なぜなら礼拝という場において、キリストを信じる人の口からメッセージが語られ、キリストを信じる人の、目と耳によって受け止められることによって、
「言語」では伝わらない部分が伝えられ、それぞれの心の中に「想い」や「気づき」や「感情の変化」を生み出すからです。
その「言語」にならない部分が、その人の生き方や行動に働きかけてる力を持っているからです。
これは、音楽に例えるとわかりやすいでしょう。
「メッセージ原稿」は、いわば「楽譜」です。
「楽譜」がどれほど素晴らしい「音楽」を記していても、「楽譜」を読んでいるだけでは、人々にその「音楽」がもたらす「力」「感動」は伝わりません。
「楽譜」は人間の手や口によって「演奏」され、人間の目や耳を通して「聞かれ」て初めて「音楽」となるのです。
礼拝メッセージも、その言葉としての内容が、語る人の想い、感情、霊性を通して、言葉となり、
聞く人々の想い、感情、霊性をとおして聞かれることで、伝わり、響き合うものだからです。
同じ曲を演奏しても、その時の演奏者と聴衆の状態が違えば、伝わり方も違うように、
毎週の礼拝は、毎回毎回が、もう二度と同じ伝わり方をすることのない、一度きりのメッセージを分かち合う現場なのです。
そういう意味で、まずメッセージの原稿は、一度聞いただけでは忘れてしまいやすいし、聴き逃してしまいやすいときの、助けとして利用してくださったらと思いますし、
もちろん、礼拝に参加することができなかったときの、補完として利用してくださっても感謝です。