教会にしか出来なことをしないとね

教会にしかできないこと。教会がすべきこと。それは「礼拝」

でも、「教会は、礼拝だけしていればいいのか。社会の様々な問題に、教会は仕えていくべきではないか」という人もおられるものです。

貧困、差別、戦争、人権抑圧・・・・・

しかし、そのような問題に具体的に対処するためには、その組織に専門的能力、技術、人材、設備、財源が必要なんです。

教会の規模にもよるけれども、教会は社会の一つ一つの具体的諸問題に対して、本当の意味で解決に貢献できる技術、設備、人材、財源はもっていないものです。

一方、教会に与えられている独自の専門的能力、リソース。役割があります。
それが「礼拝」です。

牧師の存在、学び、祈り、信徒の祈り、奉仕、捧げものなどは、「礼拝」のために備えられた教会の資源です。

ゆえに教会は「礼拝」をすることによって、教会独自の役割をはたし、この社会に対しても、その責任を果たしていくのです。

病院が本来の医療業務に集中しないで、社会のためにと、あれこれ専門違いの活動に力を注いだなら、実りはないどころか、社会のためにもならないでしょう。

教会は、他の事柄には専門性や力がなくても、「礼拝」については、それを果たすための資源をもっているはずなのです。

「礼拝」の力を失うことは、教会として存在意義の喪失なんです。

「礼拝」は神との出会い、交わりです。目に見えない領域の事柄です。

ゆえに、礼拝だけでは、社会に貢献していくのは不十分ではないかと感じることもあるかもしれません。

しかし、礼拝に与った人々は、この世界へと派遣されていくのです。

礼拝で、イエスキリストを通して、神の愛の言葉をいただき、イエスの言葉が宿った人々が、この世界に出ていって、小さなキリストとして、社会の中で仕えていくのです。

それぞれ、一人ひとりの専門性を活かす現場で・・・

ある人は政治家として、ある人は教育者として、ある人はビジネスマンとして、ある人は主婦として、学生として・・・

ゆえに、礼拝は、社会に大きな貢献をすることができ、
教会は、礼拝という、教会にしかできない社会貢献をしているのです。

この世のなかで、教会だけが貢献できる働き。
神との出会いの場。それが礼拝なのですから