教会に「こうなったらいいな」という幻がなければ、
今、なにをしたらいいのかがわかりませんね。
企業は利益が目的のあつまりだから、営業利益という数値目標を立てることができるけど、
教会は主イエスを信じる人々の集まりだから、数値目標のようなものは、幻にはならないんですよ。
主イエスを信じる人々のなかにあらわれてくる、人格とか、関係性などの、
数字に表現できないものが、教会の本質だから。
なので、たとえば、
「自分に失望していた人」が「神に愛されている自分の価値を見出して、活き活きと歩み始める」とか、
「人がゆるせなくて苦しんでいた人が、神に赦されている自分をみいだして、人をゆるせるようになった」とか、
「教会にきた新しい人との出会いのなかで、神様から新しい気づきを得て、互いに成長できた」とか
こういうひとり一人の内面の成長や、
互いの関係性のよい変化をへて、
イエス様がその生き方をもって示してくださった
共に生きる豊かさを、あらわしていくのが、教会の本質だと思っているので、
これは数字目標には、できないわけです。
ただ、そういう、人格とか関係性という、目に見えないところが、いい変化をしていくなかで、
結果として、礼拝に集う人が増えるという、目に見える数字としてあらわれることもあるかもしれないけれども、
それはある意味、副産物なのであって、
そこに本質はないのです。
本質は、目に見えない部分にこそあるのだから。
そして、教会において、本質的に重要でありつつ、
もっとも、目に見えにくく、おろそかにされがちなのが
「祈り」なんじゃないかなと、思うのですね。
というわけで、
「主にあって互いに語り 祈り合おう」
なんです。