5日の夕礼拝 メッセージ

1ペトロ4:12〜19

「苦しみと喜びは一つ」


わたしたちの教会は、最近赤ちゃんの姿をよく見るようになりました。
そして、9月のは、Hさんのところに、赤ちゃんがやってくるはず。

 新しい命が生まれる。それは、それは神秘です。いままで存在していなかった人が、存在するようになるという神秘。

 そして、赤ちゃんは、もう思いっきり自己中心。人のために、なにかするとか、そんなことできないし、しなくていい。自分のことで精いっぱいでいても、ちゃんと守られて、愛されて、生きていける。この世界は、そんないい場所なんだって、象徴でもある。

赤ちゃんが喜ばれ、愛される社会は、いい社会ですよ。


そして、そのために、人は、母となり、父となる。親にならせていただく。

親になるということは、もう、自分だけのことを考えて生きられないと言うことなのだけれども、人はその道に招かれて、歩みだしていくからこそ、この世界は何千年も滅びくことなく、続いているわけです。

みんなが赤ちゃんのままがいい、子どものままでいたいというのなら、この世界はとっくの昔に滅びているわけですから。

エスさまが、自分の十字架を背負って付いてきなさい、といわれたけれども、十字架を背負うというと、なんだかとても大変なイメージがあって、私には無理だという気になるけれども、そんな大げさな話ではないんです。

実は、みんな一日10回くらいは、自分の十字架を背負っているんですよ。

気がつかなくても、ほんのちょっとのことでも、そういうことをしている。

たとえば、本当はもらったおやつを全部食べたいけど、兄弟のために、ちょっと我慢して、残しておくとか、

自分がいつも一番さきにしたいのだけれど、あの人がまだやっていないから、先にやらせてあげるとか。

自分だけでやらないで、一緒にやろうとするとか、

それって、赤ちゃんにはできないことでしょう。ちょっと譲って、共に生きるとか。お互いにとってよいこと、普遍的な幸せを求めるために、自分が少しやりたいことを我慢するとか


こういう小さな一つ一つの、ちょっとした我慢とか忍耐とか、なにかもっと良いことのために、自分の権利を譲るとか、

その究極的な姿が、世界を救うために、ご自分の命を捨てるという、イエスさまの十字架だったわけですから。

その苦しみは、よいことを生み出すための苦しみであって、無益な苦しみではない。

十字架は復活に至るから、十字架なのだ、というのが、わたしたちの信仰ですよね。

同じように、試練も、無意味な試練はない。苦しめるだけの試練はない。なにか良いことのために、試練は、恵みとして与えられるのだというのが、十字架と復活を信じるわたしたちの信仰ではないですか。だから、試練の度に、驚くことはないということ。

今日のみ言葉に、

12節

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」12節

 とあるのは、そういうことを意味しているのでしょう。

 当時、火のような試練と表現するほどの出来事がなんなのか、具体的にはわかりません。

 組織的な迫害というより、個人的で、身近な人からの無理解とか、そういうものだったんじゃないかと、わたしは思うのですけれども、だからと言って、それは大したことじゃないという話ではないですね。

 人間の苦悩って、実は、一番身近な人々に理解されなかったり、蔑まれたりすることじゃないですか。

今、私たちは、なんの抵抗もなく、後ろめたい気持ちもなく、こうして教会に集まることができますけれども、この日本もほんの70年と少し前には、こんなに自由に教会に集まることはできなかったわけでした。


鈴木正久(すずきまさひさ)という、先の戦争の時代を生きた、牧師の説教集を読んだことがあります。

その中に、こういう話が書いてありました。

「わたしが戦争中、牧師をしていた教会は、キリスト教が憎まれるようになる前までは、時には200人以上の人が集まっていたのです。しかし、今考えてみると、その人々の集まり方というのは、讃美歌を歌うのがおもしろい、教会というのは品がよい。少しは役に立ちそうなことも教える、しかし突き詰めて言えば遊び場だ、遊び場といっちゃあいけないが、社交場だ、文化的社交場だ、そんな具合で集まっていた気配があったように思われます。しかし、いずれにせよキリストという名前のもとに皆集まっていたことには間違いありません。それは教会なのですから。

 しかし、ああいう時代になると、一人去り二人去りではなく、10人去り20人去り、束になって来なくなっていきました。戦争が激しくなるころには、もうほんとうに二人、三人、他は誰も来ない。そうして、その空き家のようになった教会が、しかしコンクリートで造ってあるので、逃げ隠れすることも出来ず、目の前が警察ですからね、そういう教会を怪しいものとして、いつも見張っているのでしょうけれども、その警察署の前に教会が建っている。夜、それを見上げて、自分がそこの牧師として、キリストのために勇敢になるということは、どんなに難しいことか。反面、多くの男達は、どんどん戦争に行ったわけです。

 私はこんなことを感じました。赤紙一枚で戦争に引っ張り出されるわけですが、それが来たときに、内心、ほっとしたのです。本当に変なことですが、ほっとしたのです。『やれやれこれでおしまいだ。心を疲れさせられる生活はおしまいだ。いまや名もない一人の兵隊になって、みんなの中に紛れ込んで、くるしいったってこんな状態よりもいい。出かけていって死んでしまう。しかし今よりも楽だ』こんな気持ちが、あの召集令状をもらったときにしたのであります」


この鈴木牧師の言葉に、皆さんはどう感じられたでしょう。

時には200人以上の人が集まったこともある。賛美歌を歌うのが面白い。教会に行けばなにか役に立ちそうだ。社交場だという集まりだったかもしれない。それでもまぎれもなくキリストの名のもとに集まっていた。そこは教会には違いなかった。

けれども、戦争が始まって、敵国の宗教と思われていた教会は、あやしいと、みはられて、教会の人々も、どんどん離れていって、お国のためにと、そういう雰囲気の中で、なにか理解されず、人から蔑まれ、心疲れきってしまう牧師でいるより、いっそのこと戦争に出かけていって、死んでしまった方が楽だ。そんな気持ちにさえなったと言う、告白

 キリストを信じるからこそ、身近な人こそが離れ、その心の苦しみを味わった時代。

ペトロの手紙を受け取った人々も、きっとそういう苦しみ、火のような試練の中にあったのでしょう。

そういう状況の中で、ペトロの手紙は、このように励ますのです。


4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。


 「キリストの名のために非難される」「身近な人に理解してもらえない苦しみ」
 しかしその試練は無意味な試練ではなく、むしろ、そういう試練の現場においてこそ、神の霊、聖霊がとどまり、聖霊が働かれ、神の業がなされていくという、幸い、希望の宣言。

 十字架は復活にいたる。苦しみと喜びは一つのこと。


ただ、喜びとはならない苦しみもあるので、それは注意しましょうというのが15節


 4:15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。


人殺し、泥棒、悪者が、当時の教会にいたのか、わかりませんけれども、これは、わたしたちには関係がないと感じますけれども、

他人に干渉する者がいけない、というのは、どうしてなのだろうと、思います。


調べてみると、この「他人に干渉する」という言葉は、「他人のものみる。それも「自分のものにしたい」という、そういう思いで見るという意味の言葉なのだそうです。

他人の人生を、他人の時間を、他人のものを、自分が支配したい。自分の者にしたい。自分の思い通りにしたい。

そのような願望が、人を苦しめていくのでしょう。

人を巻き込こみ、人を駆り立てていく。あいつは悪い奴だと扇動する。

そうやって、他人に干渉し、巻き込んで、なぜ、あなたもあの悪い奴をやっつけないのだと、扇動する。

そういう動きによって、大きな罪が、ジェノサイトが、苦しみが、引き起こされてきた歴史を、わたしたちは知っています。

そのような、他人に干渉していこうとする。影響力を持とうとすることの中に忘れられている人間の罪の問題。

それはクリスチャンであっても、そうであるからこそ、ちゃんと自らの罪と、向き合わなければならないのです。


ドイツの牧師で小説家のアルブレヒト・ゲースという人の「不安の夜」という小説があります。

第二次世界大戦で、牧師として従軍した男が、一晩過ごした、不安な夜。
なんで不安になったのか。

ある兵隊が脱走したのです。人間らしい生活に憧れて脱走するが、つかまって、死刑にされる。

その銃殺刑に、この牧師は立ち会わなければならないのです。

自分もナチ政権には批判的な立場。ヒトラーのやり方にも、戦争にも反対している。

その自分が従軍牧師として、ヒトラーの手先として、今、死刑になろうする兵隊のその心を休めるために、牧師としての務めを果たさなければならない。

そのために一晩悩み続ける。

翌朝、銃撃隊の隊長から会いたいと電話がある。何事かと思ってあってみると、その銃殺体の隊長も牧師だった。
牧師であったのが、軍隊に入り、将校になっていた。

もっと驚くことは、銃殺を命じた指揮官もまた、元牧師であったと、知った。

その指揮官は、あえて牧師の務めを捨てて、ヒトラーに従った男だった。そして、反ナチスの立場で、依然として牧師らしく振舞う男に、あえて銃殺の任務を与え、さらに、従軍牧師を呼びつけて、命令をちゃんと実行せよと念を押した。

その銃殺予定の前夜、二人の牧師は、語り合う。それは、あの元牧師はひどい人間だ。信仰を捨てて、ナチに協力したと、責める話ではなかった。

そうではなく、いったい信仰を捨てて、ナチに協力するようになった、あの男と自分たちと、どこが違うのだろうか。
確かに違いはある。自分たちは、よくないことをよくないと生きようとしている。神が許さないことは認めないと一生懸命に努力している。

しかし、その自分たちでさえ、この悪の力の中に巻き込まれて、明日、間違った銃殺命令に従わなければならない。
結局自分たちが否定している暴力の手先にならざるを得ない。これはいいわけは出来ない。巻き込まれてしまっているのだから。

そうだとすれば、わたしたちが罪を逃れられるとはいえない。

そして、こういうのです。

「われわれの罪は生きていることにある」と

「われわれの罪は生きていることにある」

生きているということのなかに、わたしたちは逃れきれない罪や過ちがある。決してそこから切り離されて、全く清い中にいきることはできない。自分は違うと、罪はないということはできない。ただ違うことがあるとすれば、その罪を知っているということ。

罪を担いって生きるしかない、神の憐れみと赦しにいきるしかない、ということを知っているということ。


ペトロは、こう言います。

17節

「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。


神の家、教会は、罪も汚れもなく、清い人々の集まりですから、なんのおとがめもありませんという話ではないのです。

むしろ、教会は、生きていることの中にある、どうしようもない、逃れようのない罪を知り、悲しみ、憐れみを求めて、

罪の赦しの福音に、すがるしかない人々の、集まりであるのだから。

わたしたちの裁きを、主イエスがかわって裁かれ、苦しまれたことに、ただすがるしかない、ゆだねるしかないと、知った人々の、集まりだから。


4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。


罪も汚れも、苦しみも、悲しみも、最後の最後には、真実である神さまに、

命を与えてくださった創造主に、すべて委ねなさい。ゆだねていいんだよ。

そういっていただけるこそこそ、わたしたちの救い。希望であり、慰めなのです。

お祈りしましょう。