「初めから聞いていたことを」(2015年9月6日 花小金井キリスト教会 夕礼拝メッセージ)

shuichifujii2015-09-10


ヨハネの手紙1 2章18節〜29節
2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
2:22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
2:23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
2:24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
2:25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
2:26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。
2:27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。


こうして、この夕べにお一人お一人を招いてくださった天の父である神さまに、心から感謝いたします。
先週は、この夕礼拝の場に、HSさんもいたんですね。大きなお腹で、はじっこのほうに座っておられました。
その日は、ご主人のMさんが、夜勤で不在でしたし、いつ生まれるか分からない状態でしたから、牧師館に泊まっていただいたんですね。
その日、結局夜中の2時に、わたしの妻と、HSさんは、病院にいくことになって、妻はしばらく付き添っていたのですけれども、わたしはと言えば、そんなことはつゆ知らず、朝までグーグー寝ていたわけでした。


どうしようもない牧師ですね。妻には頭があがりません。
結局、その日月曜日の夜に、無事に女の赤ちゃんが生まれました。HSさんは、こんなに苦しいとは思わなかったと、言っておられたようですけど、でも、生まれた赤ちゃんのかわいいかわいい顔を見ると、その苦しみも忘れてしまうのでしょうか。

残念ながら、男性にはわからないことですね。神さまがそのようにおつくりになったのだから、男性のせいじゃないのですけど。

エスさまがヨハネ福音書のなかで、こんなことをいわれましたね。

16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

十字架の苦しみと復活の喜びを、生みの苦しみと、新しく生まれる命の喜びに譬えているわけです。


今日のヨハネの手紙の箇所で「子供たちよ、終わりの時が来ています」とか「反キリストがあらわれています。これによって終わりの時が来ているとわかります」と、「終わりの時」という言葉が、何度も出て来ますけれども、

聖書が伝えている「終わりの時」「終末」は、新しい始まりの時、新しい天と地。神さまの愛と正義が、ちゃんと実現して完成する。もう不条理の涙を流すこともない、喜びに満ちた復活への「希望」と、一つのことですから。生みの苦しみも、生まれるための、苦しみなのですから、耐えることが出来る。

もちろん、帝王切開であっても、出産に至るまで十月十日、大変な思いをするのは一緒。

でも、その日々がなければ、新しい命は生まれない。
だから、わたしたちも、この地上での日々を生ききることで、次の新しい命へと生まれ出るわけでしょう。

その復活の希望の、初穂。最初にその道を通り、わたしたちにその復活の希望を見せてくださった方こそが、イエスさまであり、その意味で、メシア、ギリシャ語ではキリスト、救い主、イエスはキリストと、わたしたちは信じて、告白しているわけです。


しかし、今日の聖書の箇所では、そのイエスさまを、メシア、キリストであると否定する人々が、当時の教会のなかに現れてきて、その人たちが、教会から離れていってしまったということが、背景にあった様なのです。


それでは、いったいその人たちは、何を信じて離れていってしまったのかというと、それをヨハネは「反キリスト」と言っているわけですね。

18
子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストがくると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
19
彼らは私たちから去っていきましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。


「反キリスト」とは、英語ではアンティ・クライスト。何かに反対する立場のことを、アンチとわたしたちも使いますね。アンチ巨人とか、そんな使い方をしますけれども、

実は、このアンティという言葉は、「反対する」という意味だけではなくて、もう一つ「代わりに」という意味もあるようです。ですから「反キリスト」というと、キリストに反対するというイメージですけれども、むしろ、「キリストに代わるもの」「キリストの代わりになろうとするもの」という意味で考えた方が、リアリティーがあるでしょう。

「キリストに代わるもの」神の究極の救いに代わって、これがあなたを救うよと現れる存在だったり、物だったり、思想だったり。
そういう「キリストに代わろうとするもの」は、わたしたちの周りにも、沢山あるのではないですか。

実は、今日の箇所の、すぐ前のところでは、ヨハネはこういうことを言っているのです。

「世にも世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」

「世」「この世界」そして「この世界にあるもの」、自然、人間、神が造られたあらゆる被造物。

それはもちろん、すべて善いもの。素晴らしい神の作品。神さまが造られたものを通して、神の素晴らしさがあらわれているとも、パウロはいいました。この世は素晴らしいものなのです。

でも、それを愛してはいけないと、あえて言わなければならなかったのは、どんなにこの世が素晴らしくても、それは神ではないのだから。

神の救いを与える、「キリストに代わるもの」ではないのだから。

これがなければ生きられない。救われない。そのような愛し方を、依存を、この世やこの世のものに、してはなりませんよ、ということではないでしょうか。自然も、どんなに優秀な人間も、科学技術も、「キリストに代わるもの」ではないから。

なのに、なにか魅力あるもの、力あるものこそが、「キリストに代わって」わたしを救ってくれるのではないかと、この世のなにものかを、その人の心の中で、キリストの立場においてしまうなら、その人は、その「反キリスト」「キリストに代わるもの」によって、自由を奪われてしまうのです。

かつて、約70年前のドイツでは、「キリストに代わって」「ヒトラー」こそが、自分たちを救ってくれると、本気で信じられた時代がありました。

その時代の日本も、アマテラスおおみ神の子孫である、「天皇」の御力によって、神風が吹いて、日本は戦争に勝つのだと、信じさせられて、天皇が「キリストに代わって」、この日本を救うと信じさせられたとき、人々は自由を奪われ、その「キリストに代わるもの」「反キリスト」のために、命をさえ捨てることさえ、させられたのでした。


「キリストに代わるもの」つまり「イエスさま」ではないものが、あなたを、国を、教会を、救うと、「キリストの座」に座るとき、人はその「キリストに代わるもの」「反キリスト」によって、自由を奪われ、その「反キリスト」の栄光のために、犠牲にさせられていくということが起こります。

これが、偶像礼拝の本質です。

力あるもの。魅力的なものを拝むことで、むしろ、その力あるもの、魅力的なものの、栄光のために、自分自身が犠牲になっていく。

そんな救いを与えるのが、「キリスト」ではないのです。わたしたちはそんな「反キリスト」を信じているのではなく、むしろまったく反対に、わたしたちが生き生きと生きるようにと、永遠の命へと新しく生まれさせてくださるために、「キリスト」ご自身が犠牲になり、わたしたちの罪をあがなうために、命を捨てられた、あの、十字架につけられた「イエスさま」をこそ、わたしたちは、「キリスト」と信じているのです。

わたしたちを救うお方は、わたしたちのために、十字架の上で、死んでくださった方。そのご自分の命をかけて、わたしたちを救ってくださった方。

天皇も、ヒトラーも、わたしたちのために死ぬことはなく、むしろ、天皇ヒトラーの栄光のために、わたしたちの命を捧げさせようとした「反キリスト」。


そして、今も、わたしたちを活かし、救うのではなく、わたしたちから奪い、わたしたちをぼろぼろにしようとする、偶像が、「キリストに代わるなにか」が、わたしたちの心の真ん中に、座っていないか、問いかけてみたいのです。



このヨハネの手紙の一番最初のところにはこういう言葉がありました。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について」1節

と始まるのです。

エスさまは、肉体的に苦しむことのなかった、霊だけの存在だったという人々が、教会に中に現れたからです。
栄光のキリストに苦しみはふさわしくない。そんなものが、究極の救いを与えられるわけがない。
キリストは、霊的な存在だったのだ。ただ一時、人間のように、見えただけなのだ。
そういう思想があったのです。

そうではないのだ。私たちは実際に、イエスさまの声を聞いたし、この目で見たし、なによりその体に触ったのだから。イエスさまは本当に人として、わたしたちとまったく同じ人間であり、そして命の言葉だったのだから。

それがヨハネの一番言いたいことであるし、わたしたちも、そのことをちゃんと聞きとりたいのです。。

人間としての弱さを、否定し、認めようとしない救い。
強いもの、魅力あるものが、救ってくれるという思想。

天皇」が、「ヒトラー」が、その弱さではなく、その強さゆえに、威光ゆえに、「キリストに代わるもの」「神」とさえ信じるような、

そんな、栄光にあやかりたいという、ご利益的な動機。

そんなもので、わたしたちはイエスさまを信じているのではないのです。

もしイエスさまを、そのようなご利益目的で信じて集うなら、19節で言われていることが、現代の教会でも起こってしまうでしょう。

19
彼らは私たちから去っていきましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。


悲しい言葉です。でも、人として十字架につけられたイエスさまを、そのイエスさまの無力さ、小さくされたあり方のなかにこそ、本当の救い主の姿を、メシア、キリストの姿を、見出す仲間となれなければ、

一緒に、この世という荒波を困難を乗り越えていく、船の仲間になるのは難しい。

困難から逃れるご利益の神ではなく、困難のただなかに、飛び込んで十字架に至る道を歩まれたお方を、わたしたちはメシア、キリストと、聖霊に導かれて、信じる仲間であるからです。

20節でいわれているのは、そういうことでしょう。

「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」

ヨハネは「聖なる方からの油」といういい方で、神の霊。聖霊を語っています。

パウロも同じような言葉の使い方をします。

2コリントの1章21節にこうあります

「わたしたちとあなたがたをキリストに固く結びつけ、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保障としてわたしたちの心に「霊」を与えてくださいました」

わたしたちに注がれている油とは、キリストに固く結びつける、神の霊。聖霊ですという言葉です。


今日のヨハネの2章27節で言われていることもそうでしょう。

「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。」

聖霊の働きがあって、初めて、聖書のみ言葉がわたしたちの前に、神の言葉として立ちあがってくるし、逆を言いますと、聖霊が働いて守っているからこそ、わたしのような、未熟者が説教をしてもゆるされるというか、大丈夫なのです。

なぜなら、皆さんの中で、聖霊が働いているから、わたしが聖書にないこと、変なことをいったら、分かるわけです。

そういう意味でいえば、わたしは聖書を教えているのでも何でもなくて、すでに皆さんの中で働いている聖霊、御心を教えてくださっている聖霊の働きに、説教という仕方で、仕えているだけです。

本当は聖霊がすべてなさるので、だれからも教えを受ける必要などないわけで、そういう意味では、ただ聖霊の口となって、語るのが説教者なのであって、自分の考えとか、誰かの意見とか、そんなことを語るのではなくて、心を静めて、聖書のみ言葉を、福音を語る、聖霊の口に、イエスさまの口に、なるわけです。教会に祈られ、支えられながら。ぜひ、牧師のために、お祈りください。

十字架につけられたイエスこそが、メシア、キリストなのだと、宣言しつづけられるように。

弱さの中に、絶望の中に、「わが神わが神、なぜ、お見捨てになったのですか」と叫ばれた、あのお方の中に、

そんな弱さの中に、救いなどあるものかと、人々がバカにしようとも、離れて行こうとも、

この初めからわたしたちが聞いてきた、逆説的な神の愛。御子イエスの十字架の愛のうちに、

今の自分自身の弱さも欠けも罪も、

どうにもならない現実も、悲しみも、苦しみも、

みんな委ねて、天の父に結んでくださる、この十字架の愛の内に

今週も、とどまり続けるわたしたちでありたいのです。

祈りましょう。