温泉と教会のつづき

shuichifujii2014-11-27

 このまえから、教会に温泉があったらなぁ、ということをこのブログにも書き、会う会うひとに語っていたら、「山形に、そんな教会がありますよ」とある方から教えていただいたんです。

正確にいうと、教会の施設として温泉があるのではなくて、教会の建物の向かい側が、一般の温泉の施設なんだそうですけれども、「正面に温泉教会」というのも、いいじゃないですか。

さて「温泉」というメタファー(隠喩)に秘めた、わたし自身のイメージする教会の姿には、「癒し」ということがあったわけですけれども、実はまだあるんですよ。

「温泉」に入る前に、体を洗ってきれいにするでしょう。

一週間の生活の中で、人に対しても自分自身に対しても、傷ついたり、傷つけたり、そんな日々の中で付いた汚れ。神さまに信頼できずに思い悩んだり、恐れたり、イライラしたり。そんな不信仰という罪の汚れ。

自分では落とせない、そんな汚れを、イエスさまにきれいに洗っていただく。
そんな悔い改めと赦しというメタファーも、実は「温泉」に秘められているんですよ。

さらに、もうひとつ、

「温泉」って、みんな、裸で入るでしょう。もちろん男女は別ですけれどもね。

そこが「プール」とは決定的にちがうところ。水着さえもつけない。すべて身につけているものを脱ぐ現場。それが「温泉」

日曜日の礼拝は、普段の生活の中で、自分で自分を守るために、身につけている、社会的地位とか、立場とか、知識とか、プライドとか、そんなものを、みんな脱いで、神さまのまえに、ひとりひとりが1人の裸の人間として、神の子として、出会う現場のはず、なんです。

温泉の湯船の中にはいれば、立派そうなおじさんが、お腹が出ていたり、脂肪でぶよぶよだったり、手術のあとがあったり、そんな本当の姿を、お互いに見せあいながら、同じお湯につかっているわけなんです。

裸になって、1人の人として、そこで出会う。

それが日曜日に共に集って、神さまの前に礼拝を捧げる、ひとりひとりの姿でありたい、ということなんですよね。

なんだか、教会に来ても、自分で自分のことを守ろうと、洋服を着たまま温泉に入っているかのような、心を閉じたまま、自分が身につけた考え、プライドで、自分をまもりながら礼拝している、ていう時、あるんじゃないですか。

裸になれずに、洋服を着たまま湯船にはいる「温泉」がいかに不自然で、ちっともあったまることがないように、心を開かず、立場やプライドを身につけたままの礼拝なんて、不自然で、ちっとも心はあったまらない。

って、わたしは思うんですよね。

あったまる教会っていいなぁって、そんな意味でも温泉教会に憧れるんですよ。

(写真は、教会の近くで見つけた、うめもどきの実)