今日は、午前中は小学校の文化祭に、子どもたちの発表を観に行き、
午後からは、仙台の教会の方々と、交流のひと時を持たせていただきました。
なかには、初めて酒田という場所に来たかたもおられて、
この場所に来なければわからない、空気、雰囲気を感じられたと言っておられました。
今、インターネットで、どんな場所をも越え、瞬時に繋がる時代に生きていると、
つい「その場所」であることの意味や、「その空間」であることの意味が、わからなくなるものです。
でも、わたしは、「場所」って大切だと思うんですよ。
なぜなら、人間は同時に複数の場所に存在できないから。
ある場所にいる、ということは、違う場所にいることを、選ばなかった、ということだから。
今日、どの場所にいることを選ぶのか。
今年、どの場所にいることを選ぶのか。
人生のある時期、どの場所にいることを選ぶのか、という背景には、
実は、選択と決断があり、そこには深遠な意味があるはずなんです。
さて、長男は小学校6年生。今年最後の、小学校の文化祭で発表。
次男は1年生。今年初めての、文化祭での発表。
わたし自身は、酒田での8年の生活は、人生の時間の6分の1であるけれども、
こどもたちにとっては、ここは、生きてきた時間のほとんどをすごした場所なんだと、あらためて思いました。
しかも、人生において非常に重要で、二度とこない、子ども時代を過ごした場所。
このほかでもない、酒田という場所で、彼らは生まれてからほとんどの時間を、生きてきたんですね
6年生の発表で、Sジンク(酒田甚句のポップバージョン)を活き活きと踊る息子の姿を見て、
その、当たり前のことにいまさら気付いて、感動していました。
人は、自分の人生のある時代を、
どこで生き、なにを行い、どんな出会いをするのか
それを、自分で選択し、決断し、生きてきたつもりになるけれども、
人生を振り返ってみれば、そうとはいいきれず、
むしろ、自分の意思や願いを越えて、ある場所、ある出会いへと、招かれ、導かれてきたという実感が、
誰の心にもあるはず。
それは、わたしたち一人ひとりを、
この時代に、この国という場所に、
深遠なる愛の計画によって、存在させた天の親の導き。
それは今までも、そしてこれからも続く、愛の招き。
神は愛するゆえに、人をある場所に導かれ、
置いてくださる。
そのことに目覚めた今、
神が置いた所で、それがどこであっても、
美しく咲く、小さな花でありたいと、あらためてそう思うのです。
新約聖書 使徒言行録御17章26節〜
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」