「そこにいる」ことが嬉しい現場

「主よ 年老いたものと若いものとが相互に理解しあうことはしばしば困難をともなうことです。世代間でつみ重ねてきた誤解・懸念・怒りをどうぞ打ち砕いてください。両親たちや老人たちを傷つけることのない生き方が発見できますように。親たちが子どもたちの新しい生活スタイルを誤解することがないようにお助けください」M・ザイツ/F・ティーレ編「わたしたちは祈ります」(1978年刊より)


 高齢化社会の中で、教会も高齢化していることがネガティブに語られることが多いんですね。でも、そんなことはないんじゃないかと思うんです。

 それは、なにかが出来る、という「行動」に価値をおく現代的な価値観でみるからでしょう。

 聖書は人の「行い」に価値をおかず、人の「存在」「命」そのものに、キリストの命をかけるほどの価値があることを伝えている。

 人は自分の「行い」によって生まれ、生き、天に招かれるのではなく、「神の恵み」によって生まれ、救われ生かされ、やがて天に招かれる。福音とはその神の恵みへの気付き。

 だから、年老いて出来ることが少なくなればなるほど、福音の真理を体験し、示すことが出来る存在になっていくんです。

ただ「そこにいる」ことが、神さまから頂いている、貴重な仕事であることを示す存在になっていく。


そもそも、教会とは本質的に、「自分たち」がなにかを「行う」ための集まりではなく、「神さまの恵み」によって「そこにいる」お互いを感謝しあい、喜びあい、祈りあい、人と人とが繋がることで、神さまの愛をこの世界に証し、分かち合う現場なのだから。


その意味で、高齢化はネガティブなことではなくて、神の恵みによっていかされていることが、さらにあらわになっていくことではないですか。

反対に、もし若いこと、動けること、行動することが賞賛され、年老いた人がただ「そこにいる」ことに引け目を感じたり、居場所のなさを感じるとするなら、そこは福音の真理が示されている現場とはいえないんじゃないか。


 動けることも感謝。動けないことも感謝。だれも責めず、だれも責められず、あなたが「そこにいる」ことが嬉しくてしょうがない。そんな集まり。


 うちの、のぞみ教会は、年老いた方がまだそれほどおられないから、そんな素敵な現場にはまだなれていないのかもしれないな。


 あなたが「そこにいる」ことが嬉しくてしょうがない。そんな現場に心から憧れます。