「理不尽」と感じるのは信仰があるから

shuichifujii2013-12-18


 今日は素晴らしい鳥海山がみえました。感謝ですね。

 今朝は小学校の読み聞かせ。クリスマスって、神さまが、わたしたちのために、神の子であるイエスさまを生まれさせたことをお祝いする日なんだよって、絵本を通して語らせていただきました。

 「クリスマス」って本来、思いっきり宗教行事ですからね。

「宗教」という言葉は、手あかがついてしまって使いたくないけれど、ほかにいい言葉がないから仕方がない。要するに、人間にとって一番大切なこと。この世界の本質とか意味ということ。これは実は教育の本質のはずなんだよね。

 でも、ある人は「宗教」とは、人生に起こる「理不尽」なことを説明するためのものだ、というんです。

 たしかに、「理不尽」なこと、災害とか病気とか不慮の事故とか、そういうことが自分や自分に関係する人の身に起こった時、「なぜ自分だけが。」「なぜ、あの人だけが」と問いたくなるでしょう。


それに対する答えとして「神さまからの試練」であるとか、「前世の因縁」とか、そういう答えを提供するために「宗教」がある。

宗教とは「理不尽」なことを納得させる答えを提供するために「要請」され、生まれたという考えがあるんですね。

でもそれは違いますよ。


 なぜなら、そもそも「理不尽だ」と感じるということは、この世界には「あるべき姿」「道理」があると思っている証拠なんですから。その「あるべき姿」に合致しない出来事に対して人は「理不尽」だと感じるわけでしょう。

 もし、この世界が意味もなく、偶然に存在したなら「あるべき姿」も「道理」もないじゃないですか。人が若くして死のうが、苦しもうが「理不尽」だなんて感じること自体、おかしい。

 「いや、生物の進化だけはこの世界の道理」だという人もいるでしょうね。「自然こそがこの世界の道理だ」ということですかね。ほんとですか?

 それなら、なぜ「人間」は、弱肉強食を徹底しないんでしょう。そういう生き方に後ろめたさを感じたり、弱い者から搾取する強い人間に対して、自己中心で欲深い人間だと、なぜ感じるのでしょう?

 むしろ、進化論的には不合理極まりない「弱者をいたわる行動」とか、マザーテレサのように「他者のために自分を捧げて生きる生き方」に、感動など覚えたりするのでしょう?

 これはこの世界が、そのような「他者への愛」を「道理」として成り立っていると心のそこで「信じて」いるからじゃないですか?

 だからその「道理」である「愛」に反する出来事が起こるとき、「理不尽」さも感じるわけでしょう。

 そして、聖書は「神」は「愛」だというわけです。「愛」を信じるということは、その愛をもたらす「神」を信じることになるわけです。

 ですから、「理不尽」なことが起こるので、その説明のために「宗教」「神」が必要なのではないんです。

反対に、この世界の「あるべき姿」が「愛」だと信じているので、「愛」である「神」を信じているので、それに反することが起こると「理不尽」だと感じる、ということなんです。


 じゃあなぜ「理不尽」なことが起こるんですか、といわれたら、わたしにはわからない。ただ、聖書が教えるのは、人とは天に向かって地上を歩む旅人であって、今は、やがて「あるべき姿」「愛」が完成する天に向かって歩む旅の途中だということ。

 旅だから、当然危険もあるし、理不尽とか困難もあるが、自分の足で歩いて旅をし、その全てを体験して、目的地に行きついた喜びは大きい。それだけは言える。その旅のプロセスのことを「試練」といったりもするけど。

 ただ、その旅は孤独な苦行の旅ではなくて、天まで一緒に歩み、助けてくださる方がイエスキリスト。その方がこの地に、そしてあなたの心の中に生まれる。それがクリスマスの本当の意味なんですよ。

とにかく、「こんなこと理不尽だ」と感じている人こそ、実は、「愛」を、「神」を信じている信仰者だということなんですね。


新約聖書 ヨハネの手紙1 4章7節〜9節
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」