「わたしが願うことではなく御心に適うことが行われますように」

今日の夕方、ある方からの、こんな質問メールをいただいたんですね

「はじめまして。T(58歳男性)と申します。
聖書についてお伺いしたいのでメールいたしました。
今日、とある方(仏教の僧侶です)から聖書についての一説を紹介され
その意味が分からずにこまっています。
その一説とは「わたしが願うことではなく御心に適うことが行われますように」
という一説です。
その僧侶によるとこの部分は宗教の根源を言い表しているとのことで、
教えていただけたらありがたいです。」


……さて、そのご質問に対して、わたしなりに、こう答えてみたんです。
Tさま
ご連絡とご質問をありがとうございます。
お尋ねの
「わたしが願うことではなく御心に適うことが行われますように」
という言葉は、
神の子であるイエス・キリストが、
人々の罪、汚れを背負い、
十字架につけられていく、その歩みの途中において、
父なる神にイエスが祈られた言葉として、
聖書にしるされています。
ですから、ここでこの、「わたしが願」っていることとは、
具体的には、十字架につけられるその「苦しみ」から逃れたい、ということを指しています。
しかし、その「苦しみ」jから逃れたいという、ご自分の願いよりも、
人々を救おうとされる、父なる神の御心が行われることを願っている祈りと、
理解できます。
この祈りの姿を通してわたしたちは、
ただ自分の願望を祈り求めるだけの、ご利益宗教の祈りとはちがう、
祈りの姿、信仰のありかたがあることを、知らされます。
さて、卑近なたとえで恐縮ですが、
もし、小学生の子どもが、スマフォがほしいと親に願ったとします。
そのとき、子を愛する親なら、
まだ管理能力のない小さな子に、
スマフォなど与えて、誘惑にさらすようなことは、しないでしょう。
子の願いをきいても、あえて親がそれに答えようとしないのは、
子を愛していないのでも、いじめているのでもなく、
子への深い愛と思慮があるからです。
また、だれであっても、苦難や病気のときには、神さまに助けてほしいと祈るでしょう。
しかし、祈ったならば、必ず苦難から救われ、病気が癒されるということではないことも、
わたしたちは経験上、知っています。
そのような時、「わたしの願いを神はかなえるべき」というご利益的な信仰なら、
「祈りが足りないからだめなのだ」「信心が足りないからだめなのだ」と考えて、
自分自身や、誰か他人を責めることで、ますます苦しくなっていくでしょう。
ご利益信仰にとって、
「自分の願いがかなわない現実」や、「苦しみを経験する現実」には、
そこに何か意味や価値を見出すことはできないからです。
ただそれを排除することだけが、ご利益信仰の目的です。
しかし、
「わたしが願うことではなく御心に適うことが行われますように」
という祈りには、
「わたしが願うことがかなわないという現実」や「苦しみの現実」さえ超えた、
天の親に対する、絶対的な愛と信頼が、すでにそこにあります。
たとえ目の前の現実が、自分の願いどおりに
なるとしても、ならないとしても、
目の前の現実をまっすぐに受け止めて、
そこから逃避するのではなく、
その現実の中に、すでに深い神の愛と思慮があることを信じて、
「御心に適うことが行われますように」と祈る。
そんな人の生き方、人生を通して、
まさに「神の御心」はこの世界に行われてきたし、これからも行われていくと、
わたしはそのように、この言葉を受けとめ、理解しています。
神さまの平安がありますように