修羅場と祈り

あまちゃん」も佳境に入ってきたなぁ。

今日はゆいちゃんの家族をすてて、東京にいってしまったお母さんが、自分の行いを悔い、家族に謝りたいと一年ぶりに北三陸に帰ってきて家族とみんなと再開する場面。

「ごめんなさいじゃないよ!!」
「なにしに帰ってきたんだ」と叫ぶこどもたち。
「だまれ、お母さんを責めてもしかたないだろう」と声をあげる夫。

そしてただ「ごめんなさい」とうつむいて語ることしかできない妻であり母

まさに修羅場 (@_@)

でも、その修羅場が修羅場ゆえに、どこか美しく、深い感動を覚えた

なぜだろう。このお母さんが、それでももどってきたからなのか。

自分が責められ、罵倒され、田舎の人間関係の中で、これからも陰口を言われ、みじめな思いをしつづけることさえ覚悟して、それでも、家族のもとに帰りたいと願ってその修羅場の現場から逃げないで、罵倒の言葉を受け続けている姿に感動したのだろうか。

少なくとも、彼女はいったん捨て、失うことではじめて、家族とは、決して捨ててはならない、失ってはならないものであったことに気付いたことは間違いないのだ。

そうでなければ、この修羅場と化すことがわかりきっている現場へと、戻ってくるはずがない。

そこに感動したのかもしれないな。

確かに、間違いは犯さない方がいい。できれば、傷つけあう痛みや、悲しみなど味あわないほうがいい。

でも、その痛みや悲しみがあるから、本当に大切なことに気がついていくし、人生なんてそんなことの繰り返しじゃないか。

ただ、人が犯した過ち、傷つけてしまった罪は、なかったことにはできない。

取り返しがつかないことも事実。


「ごめんさない」ではすまないし、癒すことはできない。

自分も、言葉や態度で、人をたくさん傷つけてきたし、傷つけられもしてきた。

「ごめんなさい」では、傷を癒すことも、癒されることも難しい。

人間には無理なんだ。傷を癒すのは、神さまにしかできない。癒せない。

祈るしかないんだ。


エスさまをねたんで、鞭で打ち、傷つけ、十字架につけた人々のために、
十字架の上で祈るイエスの言葉は実に深い

「イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」