一瞬、地上の天国をみたような

今日の「あまちゃん」 スナックで、ゆいちゃんのお母さんの述懐を、ゆいちゃんのお父さん、おにいちゃん。そして浜のみんなが聞くんです。この時点ですごい、と感じた。

普通、こういう修羅場では、「あなたがしたことが、どれだけわるいことか、わかっているのか」と、責める言葉の応酬となるもの。

ところが、みんながだまって、じっと彼女の心の叫びを聞いているのだ。もう、この時点でこの場所は違うとおもった。天国のにおいがすると思った。

そして彼女が自分の弱さをすべてをさらして、「とりかえしのつかないことをしてしまいました。修復できるなんて思っていません。ゆるしていただけなくても、どうか家においてください」と土下座した場面は、もう、聖書の放蕩息子のたとえ話そのもの。

その彼女にご主人がやさしく、「もう、もとにもどらなくてもいいじゃないか。ここにいるみんなは、君が弱い人であることを知っているんだから」 そして大吉さんが「そうだ、逃げて戻ってきたんだから、仲間だ」という。浜の仲間たちがみんなで彼女を受け入れていく。

この場所は、一瞬地上の天国となったとおもった。

取り返しのつかない過ちでさえ、ゆるし受け入れて、共に生きていこうする現場。

そんな人と人との間に、神の国はきているとイエスさまがいわれた、その天の国が、まさにそこに展開していた。

今朝は、このゆるし受け入れられていく、天国の現場にふれられた感動に、きっと沢山の人が、涙したんじゃないかな。

みんな地獄のような殺伐とした人間関係の営みの中で、だれもが心の底で、この天の国にいきる感動を求めているはずなんだ。


天の父にゆるされ、受け入れられる感動を



新約聖書ルカによる福音書 放蕩息子のたとえ話

・・・・ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。